【さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー】第09回・南3条通りは音楽喫茶の宝庫だった(中)

 月刊財界さっぽろ2020年12月号より、新連載「さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー」が始まりました。

 筆者は札幌市の出版社「亜璃西社」社長でエッセイストの和田由美さん(写真)です。和田さんはこれまで「和田由美の札幌この味が好きッ!」といったグルメガイドブックや「さっぽろ狸小路グラフィティー」「ほっかいどう映画館グラフィティー」といった、新聞・雑誌等のエッセイをまとめた書籍を多数刊行されています。

 今回の連載では、札幌市内の「通り(ストリート)」や「区画」「商店街」「エリア」などの「マチナカ」(賑わいのある場所)を、毎月1カ所ピックアップ。その場所について、名前の由来や繁華街となっていく上での経緯、さらに現在に至るまでの変遷といった歴史と記憶を綴ります。

 今回は第9回「南3条通りは音楽喫茶の宝庫だった(中)」です。

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 1980年代終わり、南3条通りに面した老朽化ビルは、次々と姿を消す。私のオフィスが入居した狸小路ビルと隣接の三条美松ビルは、どちらも南3条通りから狸小路まで通り抜けできた。しかし80年代半ば、放火による火災で三条美松ビルは丸焼け。狸小路ビルは煙と少しの放水で済んだが、風の向きが違えば同じ運命を辿っていたはず。二つのビルの間にあった通称「たこ寅街道」も焼け、跡形もなくなった。

 ここに伝説のジャズ喫茶「B♭(ビーフラット)」のマスター鎌田直之さんが、「大将」という名の居酒屋をこっそり開いていたが、やっぱり丸焼けに。鎌田さんはその後、バー「B♭」を最後に45歳で飲食業界から足を洗う。

 このバブル期に、南3条通り沿いの5丁目南側は、右から有楽センタービル、南パークビル、ホクシンセンターと並んだ3棟もすべて解体され、空き地となった。それに伴い、数々の名店が幕を閉じたが、その基本的な精神は飲食店10軒の連合体「十転満店」を経て、今も受け継がれている。

 この十転満店には、前哨戦がある。今やオーディオ評論家として有名な和田博巳さんは、かつて大瀧詠一の「はっぴいえんど」と共に、日本ロック界の先駆者となった「はちみつぱい」のベーシストとして活躍していた。その彼が、南3条通りに「和田珈琲店」(後の「バナナボート」)を開いたのは、1976年6月のこと。当時の札幌では、ウエストコースト音楽を牽引する存在で、若者文化の重要な核となっていた。

 76年9月には、初の外人タレント自主コンサートとして、「エリック・アンダーソン公演」を開催。この公演は、前出の和田珈琲店を筆頭に、中島みゆきが通った前田重和さんの「ミルク」(北20東1)、映像作家・中島洋さんの「エルフィンランド」、今はビアホール「米風亭」を営む藤巻正紀さんの「楽屋」(南1西15)。そして「ケーシージョーンズ」(南3西3サンスリービル)と「ROCK HOUSE」(南2西5)の5店が参加して開かれ、大きな成功をおさめたのである。

 その後、2回目の「トム・ウェイツ公演」からは、写真家・小室治夫さんの「もんもん」(南5西6新生ビル)をはじめ、「TOYS」(南2西4イシオビル)、「拾尺層」(南2西5カジノ座2階)、「春一番」(南3西5三条センタービル)、「シムソンズ」(住所不明)の5店が加わり、「十転満店」となる。私自身は知らない店も多く、すべてが南3条通りにあった訳ではない。

 この10店が集まり、77年8月5日から3日間にわたって、大谷会館ホールと中島公園の野外音楽堂で開催されたのが、〝札幌ロック祭〟と銘打たれた第1回「ツーアウト・フルベースコンサート」である。「スカイドッグ・ブルースバンド」や「ベイカーショップ・ブギー」をはじめ、フォークのグループなども出演。私は野外音楽堂の青空の下で聴いたせいもあり、気持ちの良い素敵なコンサートだったと記憶する。

記念すべき「ツーアウト・フルベースコンサート」のチラシ(笠康三郎氏提供) ©財界さっぽろ

 そういえば当時、ミルクの前田さんは、「札幌には独自の祭りが無かったので、札幌のバンドを集めてお祭り騒ぎをしようというのが最初の発想でした」と語っていたもの。

 この催しは4年余りで終了するが、その志は「駅裏8号倉庫」(北6西1)に受け継がれる。その事務局を担当した中島洋さんは、「『劇団53荘』を主宰する植田研一さんが、稽古場と同時に公演を行う場も欲しくて、演劇仲間に声をかけたのが始まりです」と振り返る。最初に集まった演劇人は、ほかに「劇団 極」の滝沢修さん。「お芝居集団」の菊地智晴さん、「貫索舎」の松崎霜樹さん。さらに、4プラホールで支配人を務めていた飯塚優子さん(現・レッドベリースタジオ主宰)も参加した。

 たまたま見つかった石造り倉庫は、交通の便も良く広さは45坪もあって家賃も通常より安かったが、4劇団で賄うには高過ぎる。そこで映画や音楽などほかのジャンルも巻き込み、総勢12人を核に企画運営委員会が結成された。そこには、十転満店の前田さんや小室さんなども参加。そして81年9月、「駅裏8号倉庫」はオープンを果たす。

 中島さんは、「いまだ南3条通りに梶原信幸さんのライブハウス『ベッシー』は誕生していないし、南2西8に『本多劇場』が誕生するのはもっと後。だから今、現場で活躍する世代の多くは、駅裏8号倉庫に刺激を受けていると思いますよ」。が、駅裏8号倉庫は、第2次駅裏8号倉庫(北3東3)も含めて、4年半でその役目を終えた。

 そこで中島さんは86年、賛同者から寄付を募り、南3条通り6丁目の長栄ビル2階に、自主上映スペース「イメージ・ガレリオ」を開く。現在のミニシアター「シアターキノ」の前身である。その翌年には、3階に「エルフィンランド」を移転し、翌々年には4階にパーティールームと事務所を設け、南3条通りに文化の要が整った、と言えるだろう。

 駆け足でここまで来たが、その後のことは次回で!