【特別掲載】高卒都職員が540万道民のニューリーダーになるまで #鈴木直道 知事の“光と影”(前編)

新型コロナウイルス感染症対策で評価を高め、地元紙調査では仰天の「支持率88%」を叩きだした鈴木直道知事、39歳。間もなく不惑を迎える鈴木氏は今や将来の総理候補の1人にすら数えられているが、必ずしもその人生は順風満帆なものではなかった。

財界さっぽろ2020年5月号(4月15日発売)では、鈴木氏の代名詞である“ピンチをチャンスに”変えてきた、その足跡を特集「鈴木直道の“光と影”」として報じた。ここでは「財界さっぽろオンライン」リニューアル記念として、同特集から5本の記事を再編集し、前後編に分けて掲載する。

鈴木直道氏と姉の優子さん(鈴木事務所提供) ©財界さっぽろ

創価学会員2000人を泣かせた 母子家庭、苦難の生い立ち

「私の人生を大きく変わる出来事がありました。それは両親の離婚です…」

北海道知事選出馬表明から9日後の2019年2月10日、公明党の時局講演会が札幌市内のホテルでおこなわれた。同会は午前、午後の2部制で、あわせて約2000人が集まった。

鈴木氏が冒頭のように切り出し話し始めると、すすり泣きが会場に響いた。

埼玉県に生まれた鈴木氏は、幼少期は父、母、姉の4人家族。だが高校2年生の時に両親が離婚すると、姉とともに母親の光子さんに引き取られた。

鈴木氏は自著「夕張再生市長」(講談社刊)で、当時をこう振り返っている。

「低所得者向けの平屋住宅に引っ越さざるを得なかった。そこは確かに家賃は安いけれど、ボロボロで、すきま風がひゅうひゅう吹き抜ける始末。夜は寒くて眠れないので、姉と二人ですきまに布をつめて寝た。トイレも汲みとり式だった」

「多感な年ごろで、しかも見えっ張りな性格だったから、そんな家に住んでいることが恥ずかしくて、本当の仲のいい友だちしか家に呼んだことはなかった」

生きていくため、光子さんは仕事を掛け持ち。姉の優子さんは短大を中退し、働きに出た。鈴木氏も高校をやめよう考えた。だが、母と姉に止められ、通学しながらアルバイトを始めた。

「校則で禁止されていたが、特別に許可をもらい、朝5時から学校に行くまでは宅配便の配送センター。授業が終わればカメラ屋や酒屋などで毎日働いた。ほかにも、スーパーの品出し、建設現場など、できるバイトは何でもやった」(「夕張再生市長」より)

毎日を過ごす中で、「なぜ、自分だけがこんなひどい目に」と、自暴自棄になることもあったという。

そんな家庭事情から、大学進学を諦めた。鈴木氏は家を探す際などに、行政の支援を受けていることを知る。自分自身と同じように、生活に苦しむ人たちの力になれる――一念発起、公務員を目指すことになった。

公務員試験用の教材は、アルバイト代で購入。猛勉強をした結果、1999年4月勤務の東京都職員採用試験に合格。この年の高卒・専門学校卒の合格者は192人。その中で上から3番目という好成績だった。

法政大学法学部時代の鈴木氏(鈴木事務所提供) ©財界さっぽろ

都職員時代は三足のわらじ 顔にあざをつくりながら…

1999年から東京都職員として働き始めた鈴木氏は、法政大学の夜間に合格した。仕事に勉強に部活と、多忙な日々を送った。

「弱い人を支えたい」と公務員を志望した鈴木氏。入庁後は保健福祉関連のセクションへの配属を希望し、勤務先は東京都衛生研究所(現在の健康安全研究センター)となった。

仕事にも慣れた入庁2年目、法政大学二部を受験し合格。学部は法学部法律学科を専攻した。地方自治を学びたいという思いがあった。

当時、埼玉の実家から約1時間半をかけて通勤していた。仕事が終わるとスーツ姿のまま大学に向かう。毎日構内をスーツでウロウロしていたため、就職活動中の学生に間違われたという話もある。

「単位を取得できる」という理由でボクシング部にも入部。軽い気持ちで決めたのだが、その後は過酷な練習が待っていた。

「すぐに『しまった!』と後悔したが、もう遅い。スパークリングで顔に痣をつくって、職場に出入りする業者に『大丈夫ですか?』と訊かれたり、心配した先輩から『今日は帰ったほうがいいよ』と言われたりすることもあった」(「夕張再生市長」より)

大学3年には主将まで務めた。鈴木氏は月刊財界さっぽろ2011年6月号のインタビューで、当時を振り返っている。

「ボクサーとしてリングで戦ってきましたが、ボクシングは気持ちが折れてしまったら負けです。1発もらったら2発返す、そんな戦い方でした。だから闘争心は誰にも負けない自信があります」

都職員になって8年目の秋、当時副知事だった猪瀬直樹からある構想が発表された。財政破たんした夕張市に都から職員を派遣するというもの。

その数週間後、自分がその候補にあがっていることを聞かされる。悩んだ末、夕張に行くことを決意。08年1月、26歳の若者が雪が舞い散る夕張にやって来た。

着任早々、夕張市長(当時)の藤倉肇氏にかけられた忘れられない言葉があるという。「夕張再生市長」の中でこう綴っている。

「最初に感じた印象を忘れないでくれ。その場に長くいると、残念ながら視覚的にも、感覚的にもどんどん麻痺してくる。夕張市民も市の職員も、ある意味で麻痺してしまっている。外から来た人の利点は、第三者のまっさらな目でまちをみられること。そういう目で見たものは、真実を捉えているはずです」

当初の派遣期間は1年だったが、鈴木氏は志願してもう1年延長した。「若手の会」などをつくって地域に溶け込んだ。財政破たんのまちの厳しさを肌で感じた。

10年4月、派遣期間を終え、後ろ髪を引かれる思いで東京に戻った。すると内閣府の「地域主権戦略室」に出向となった。夕張市の参与としてアドバイザーを務めたが、市長選にでるとは夢にも思っていなかった。

選対事務所で支持者に手荒い祝福を受ける ©財界さっぽろ

自称「泡沫候補」が日本一貧乏なマチの市長に

10年11月、鈴木氏は新千歳空港でイベントやボランティア活動で知り合った仲間から、夕張市長選への出馬要請文を受け取り、立候補を表明した。当時の支援者はたった7人。当初は自らを「泡沫候補」と考えていた。

当時、自民党、公明党、みんなの党が推薦したのは元衆院議員の飯島夕雁氏。本来なら民主党支持層だった夕張市農民連絡協議会の支援も取り付け、元自民幹事長の武部勤氏や俳優の杉良太郎氏も応援に駆けつけるなど、盤石の体制で組織選挙を展開した。

前回選挙で3000票以上を獲得した羽柴秀吉氏も、悲願の“国取り”を目指し出馬。夕張では抜群の知名度を誇り「炭鉱時代の生活に戻してやるからな」というキラーフレーズで高齢者からの人気を集めていた。

鈴木氏は当初、この2人の候補を追う立場だった。とった作戦はさわやかな風貌から想像できないほどの“どぶ板選挙”だ。

学生時代にボクシングで鍛えた体力と若さを武器に、とにかく市民と顔を合わせた。当時の夕張の全世帯約6000世帯のうち、延べ5700世帯以上の人たちと会話をしたという。

さらに強力な援軍も現れた。前市長の藤倉肇氏が鈴木氏を後継指名したのだ。市職労も支持を表明し、古巣の都庁から当時副知事だった猪瀬直樹が応援に駆けつけた。

鈴木氏の勢いは止まらない。現職都知事の石原慎太郎氏までもが登場したからだ。

「市民にとってはテレビでしか見たことのない大スター。夕張に現れたときは『本当に来た!』と驚きと歓喜が渦巻いていた。鈴木陣営はホッとしたのでは。どちらかというと羽柴さん寄りだった高齢者の人たちも『もしかしたら鈴木さんは、すごい人なのかもしれない』と思いはじめたのは、間違いなく石原さんの“来夕”がきっかけだった」(夕張市関係者)

迎えた11年4月24日の投票日。鈴木氏の選対事務所に集まったあふれんばかりの支援者たちは、開票速報に目をこらした。投票率は82・67%を記録。プロ野球中継を映していた鈴木選対事務所のテレビ画面に、当確を知らせる速報が流れたのは午後9時過ぎのことだった。

鈴木氏は当選翌日、本誌のインタビューで選挙戦をボクシングに例えて次のように振り返った。

「相手はみんな有名選手で私はデビュー戦。自分自身がどういう選手であるかわからないままリングに上がった感じです。ただ、練習は地道にやっていたことで、最後は体力勝負になり、判定勝ちしたというところでしょうか」

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