【さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー】第03回・すすきのキャバレー繚乱

 月刊財界さっぽろ2020年12月号より、新連載「さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー」が始まりました。

 筆者は札幌市の出版社「亜璃西社」社長でエッセイストの和田由美さん(写真)です。和田さんはこれまで「和田由美の札幌この味が好きッ!」といったグルメガイドブックや「さっぽろ狸小路グラフィティー」「ほっかいどう映画館グラフィティー」といった、新聞・雑誌等のエッセイをまとめた書籍を多数刊行されています。

 今回の連載では、札幌市内の「通り(ストリート)」や「区画」「商店街」「エリア」などの「マチナカ」(賑わいのある場所)を、毎月1カ所ピックアップ。その場所について、名前の由来や繁華街となっていく上での経緯、さらに現在に至るまでの変遷といった歴史と記憶を綴ります。

 今回は第3回「すすきのキャバレー繚乱」です。

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 通称・ススキノ大通こと南4条の月寒通沿いにあった大型キャバレー「エンペラー」(南4西2、アオキビル地下)は、釧路から進出した青木商事が1973年(昭和48)に開いた。

 専務で支配人だった八柳鐵郎さんが逝去されたのは、2008(平成20)年4月19日、享年76。通夜が行われた中央霊堂にはびっしりと供花が並び、約400人が参列した。式の後、ホステスの友人は「ススキノで働く女たちにとって、エンペラーは最後の砦でした。若さを失っても、八柳さんの店なら雇ってくれると信じ、それが救いになっていたんです」と、嘆き悲しんでいたものだ。

「エンペラー」でのショーの模様。若き日の菅原文太氏がステージに立ったことも ©財界さっぽろ

 八柳さんは、エッセイ集『すすきの有影灯』(講談社)で知られる文筆家でもあり、行きつけの酒場でよくお会いした。借金と幼子を抱えながら編集工房を営む私が、「倒産したら雇ってもらえますか?」と冗談交じりにたずねると、にっこり笑って「裏口からいらっしゃい」と答えてくださったことが、今でも忘れられない。

 そもそも、ススキノにおけるキャバレーの草分けは、「モロッコ」といわれる。その昔に取材したオーナーの斉藤鶴雄さんによると、20歳の時に留萌から札幌へ出て、南4西4で自転車店からスタート。1949(昭和24)年には、ススキノ十字街の東南角(南4西3)でウナギの寝床のように細長いスタンドバー「モロッコ」を開く。これが3年後にはキャバレーに姿を変え、ススキノでも草分けの有名店に成長した。

 その後を追ったのが「マイプロミス」(南5西4、札幌観光会館)で、ライバルと目されたのは「白鳥クラブ」(南4西2)だった。一時は3店並立時代ともいわれたが、5年後に中央観光の大箱キャバレー「アカネ」(南4西4)が華々しくオープンすると、ススキノの勢力地図は大きく変わった。

「白鳥クラブ」のライバルは「アカネ」となり、その勢いに押され気味の最中、火災に見舞われる。これを機に、オーナーの増井孝次さんはレストラン業に転じ、55年に駅前通りの越山ビルでレストラン「マスカット」を開店。その流れを汲むチェーンで唯一、令和の時代まで続いたのが、西野地区で愛された老舗洋菓子店「マスカット・ボア」である。2代目夫婦が菓子職人と営み〝酒飲みでも食べられる〟と白鳥クラブ時代から評判のベークドチーズケーキを長らく看板にしていたが、惜しくも昨年5月に閉店。残念至極である。

 話を戻すと、その後は「アカネ」に続き、大晋観光「ワールド」「ユニバース」(南4西3、松岡ビル)、富士観光「月世界」(南4西3、第1グリーンビル)など、大箱キャバレーが次々に登場。60年代半ばからは、高度成長期の波に乗って〝札チョン族〟が姿を現し、ススキノは黄金時代を迎える。

 私が初めて足を踏み入れたキャバレーは、新築したばかりのすずらんビルにあった「アカネ」である。通称・ミドリのママと呼ばれる、文化人が出入りする居酒屋で知り合ったご婦人がスポンサーだった。札束を入れたハンドバッグを持ち歩き、医師の夫人という噂もあった彼女が、お気に入りの作家を誘う際、グリコのオマケみたいに私も誘ってくれたのだ。初めてのキャバレーは、華やかなショータイムとホステスさんの多さに圧倒され、何を飲んだのかすら覚えていない。

 札幌におけるマンモスキャバレーの走りは、71年開店の「札幌クラブハイツ」(南5西3、東宝公楽会館)だった。ドーム型の大ホールに400席を擁し、ポケットマネーで楽しめる低料金が人気を呼んだ。それより2年ほど遅れて開店した「エンペラー」は、演歌の一流歌手がショーを行い、2000平方メートルの店内に250卓のボックス、500人のホステス、さらに上下に動くセリ舞台があるなどスケールが大きかった。

最後まで営業を続けた「札幌クラブハイツ」も2013年に閉店 ©財界さっぽろ

 私の本読みの師匠で、当時プロモーターだった木ノ内久嗣さんは、八柳支配人に頼まれて77年にビートたけしをゲストに仕込んだという。「ツービート」の名で漫才コンビを組み、前年のNHK新人漫才コンクールで準優勝していた。3日間の契約で来札したものの、「声が小さくて、何を喋っているのかわからず、1日で契約を解除されました」と木ノ内さん。よほど悔しかったらしく、自伝エッセイ『たけしくん、ハイ!』の中で、この時の事の次第を書き残しているほどだ。

 この「エンペラー」に挑戦状を叩きつけたのが、大阪から進出した「ミカド」(南10西1)。3段吹き抜けの劇場スタイルで、ボックス350卓、ホステス総勢600人と超大型。「帝王(エンペラー)対皇帝(ミカド)」ともいうべき壮烈な死闘を繰り広げたが、結果は「ミカド」の撤退に終わる。

 「エンペラー」は、ライバルの「札幌クラブハイツ」と共に最後までススキノで踏ん張ったが、2006年9月、力尽きて閉店。「札幌クラブハイツ」は、国内唯一の大型キャバレーとしてなおも奮闘したが、13年2月、43年目にして営業を終えた。ここに、ススキノにおけるキャバレーの時代は幕を閉じたのである。嗚呼!

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