【東日本大震災10年―2】震災2日後の宮城県石巻市で…札幌市消防局隊員ががれきの中でかみしめた悔しさ

 東日本大震災から10年、あのとき北海道は、道民は、被災地に何ができたのか。何をしたのか。10年前の2011年5月号で掲載した震災特集から記事をダイジェスト掲載。今回は震災から2日後に被害がもっとも大きかった宮城県石巻市へ緊急派遣された、札幌市消防局隊員の生の声を再録。日付などはすべて当時のまま。

 強い使命感をもって東日本大震災の被災地へ向かった札幌市消防局の隊員たち。彼らが現地で目の当たりにしたのは、今まで経験したことのない惨状だった。指揮をとった札幌市豊平消防署の富田和廣消防司令長に話を聞いた。

富田和廣消防司令長 ©財界さっぽろ

どこから手をつけていいのか

 札幌市消防局は東日本大震災が発生した3月11日に11人の職員をヘリコプターで、翌12日には石狩北部消防本部の隊員を含めた64人をフェリーで宮城県に派遣した。

 今回取材に応じてくれた豊平消防署の富田和廣消防司令長は北海道隊の隊長として現地で指揮をとった。以下、富田消防司令長の報告。

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 われわれ救援部隊は3月12日に小樽発の臨時便でまず秋田港に向かいました。東北地方の太平洋側の港は全滅。日本海航路しか行けませんでした。

 現地は携帯電話がつながりません。行きのフェリーの中で隊員には「家族に心配かけるかもしれないけど、目の前の仕事をしっかりやろう」と声をかけました。

 われわれの制服の背中には「札幌市消防局」と書いていますから、「被災地では自分たちの活動がすべて見られている。このことを意識して救援活動にあたろう」とも隊員に話しました。

 秋田港には13日の朝に着きました。そこから宮城県石巻市に向かいました。7、8時間かかりましたから、行く途中で日が落ち、真っ暗になりました。停電状態で信号機も点灯していなかった。ついている明かりは消防車の赤色灯ぐらいです。石巻市内に入るころ、道の脇にふと人が立っていました。小さい子どもは私たちに対して一生懸命手を振ってくれる。大人の方は深くお辞儀をしている。それを見たとき、被災者の方が消防隊に大きな期待感を持っていることがはっきりとわかりました。

 そして石巻市の消防本部に着きました。3階建ての庁舎の1、2階は被災者であふれ返っていました。非常用自家発電装置で明かりがついている庁舎に集まってきていたのです。その光景を見たとき、「現場にきたんだ」と実感しました。それまでは真っ暗で状況がわかりませんでしたから。

 14日の朝に活動をはじめました。庁舎から外に出ると、周りの建物は壊れてはいないんですが、水がひたひたにたまっている。旧北上川の河川敷を見ると、いろんなものが堤防を越えて家のほうまで流れ着いていました。

 その日、われわれは消防車両で石巻漁港に行きました。庁舎から移動中、車窓の風景は海側に近づくにつれ一変していきました。塀も倒れ、車も流され、建物1階部分は崩壊しており、「これはなんだ」と思いました。今までも何度か災害地に行ったことはありましたが、これまでにない活動になるだろうという予感はそのときしました。

 漁港近辺はまさに惨状でした。想像をはるかに超えたエネルギーが押し寄せてきたんだなとわかりました。根のついた木が家の中に突っ込んでいました。魚も至る所に打ち上げられていた。車もひっくり返っている。漁船も陸地まで乗り上がっていた。それから臭いです。どぶ臭い、魚臭い。場所によっては灯油臭い。

 どこから手をつけていいかわかりませんでした。道らしい道もなかった。

捜索活動をする札幌市消防局の緊急消防援助隊 ©財界さっぽろ

もっと手厚い対応をしたかった

 とにかく生存者優先で捜索をしました。1階部分はがれきが押し寄せてきて埋まってしまい、2階から降りられない方の救助などが活動の中心です。

 ご遺体を確認しても、毛布やシートで少し覆うくらいのことしかできない。その先に生存者がいるかもしれないからです。もっと手厚いことをしたかったのですが、なによりも生存者優先ですから、後ろ髪を引かれる思いで先に進みました。

 こんなこともありました。捜索中、津波警報が出され、1度消防本部へ戻れという命令が下されました。隊員たちからは「時間があるならば、もう少しだけ捜索したい」という声があがりました。しかし、われわれが被災者になってはいけない。戻らざるを得ませんでした。非常に悔しい思いをしました。その後津波はきませんでした。

 現地では石巻市の消防隊員が案内役をしてくれました。後から聞けば、彼らは家にほとんど帰っていなかった。ましてや携帯電話は使用不能ですから、家族の安否もわからぬまま協力してくれました。非常に大変な思いをされている中で、彼らの強い使命感を感じました。

 救援活動で現地の職員から助言されたことがあります。残念ながら、治安があまりよくないということでした。いくつかの被災した店舗が荒らされていたり、車のガソリンキャップがはずされ、燃料を抜き取られている。そういったことから、消防車を離れる際には、かならず施錠をしてくださいとアドバイスを受けました。

 地元の方々からは「わざわざ遠いところからきていただいてありがとうございます」と多くの感謝の言葉をいただきました。

 ただ一方で、「ガソリンを分けてくれませんか」とお願いされることもありました。

 消防隊員の誰もが、困っている人を助けたいと思っています。しかし、今回は必要最小限の燃料しかない。それに、1人に分けると、ほかの人もきてしまい収拾がつかなくなる恐れもありました。こういった理由でお断りさせていただきました。本当に悔しかった。

 これからいろいろな支援によって少しずつでも復興していくと思います。ただ、家族を亡くされた方など、すごい精神的苦痛はあると思います。

 それでも阪神淡路、新潟沖など、どんな困難でも日本人は立ち直ってきています。われわれも被災者の方が早く日常の生活に戻れるよう、これからも総力をあげて救援していきます。