【今月号特選記事】特集・東京五輪、道内選手奮戦秘話 “涙の数だけ強くなれる”
東京五輪で多くの道産子選手が躍動した。女子バドミントンのナガマツペア、こと永原和可那選手(芽室町出身)と松本麻佑選手(札幌市出身)、男子卓球の丹羽孝希選手(苫小牧市出身)、女子バスケの町田瑠唯選手(旭川市出身)や本川沙奈良生選手(釧路町出身)、長岡萌映子選手(札幌市出身)、マウンテンバイクの山本幸平選手(幕別町出身)にフォーカス。各選手の父親や恩師、学生時代の監督など、身近な人物だからこそ知っている秘話をまとめた。
バドミントンの永原選手は小学2年生から競技を始めた。「和可那は体が小さく、すばぬけた才能がある感じでもなかった」と話すのは、小学5年生までペアを組んだ青木佑真さん。ただ、練習の姿勢には目を見張った。「最初から最後まで常に全力。基礎練習も一切妥協しない」(青木さん)
その強い向上心は中学時代、高校時代も変わらない。中学時代はいつも監督の目の前で練習を繰り返した。当然、注意や指導を受ける回数が増えるが、あえて厳しい指摘を受け、力をつけるためだった。
青森山田高校時代の監督は永原選手の存在感についてこう振り返る。「選手の中にもう1人、監督がいるみたい」だったと。
卒業後は北都銀行に進み、ナガマツペアが誕生。ただ、必ずしも順風満帆ではなく、2017年のジャパンオープンでは初戦敗退を喫する。この時、ナガマツペアは漂流をしかけていた。
松本選手の話。「自分たちがどこを目指しているのかわからない。練習前に1時間ほど互いの思いを話し合った」
2人が決めた目標が東京五輪での金メダルだった。18年の世界選手権で日本勢として41年ぶりの優勝。世界ランキング1位も獲得する。そして迎えた東京五輪。ナガマツペアは金メダルに届かず、ベスト8で戦いを終えた。試合後、「負けて悔いのない試合はない」と声を絞り出した永原選手の目には涙がたまっていた。
卓球男子団体はリオ五輪に続くメダル獲得となった。銅メダルを決めた3位決定戦後、日本のエース・水谷隼選手は「最高の後輩たちに恵まれて素晴らしい結果を残せました。次のパリ五輪では後輩たちに金メダルを目指して頑張ってほしい」と語り、事実上の引退を明らかにした。その傍らにいた後輩の1人が丹羽選手である。
丹羽選手の人気は極めて高く「日本のファンタジスタ」と称されたYouTubeにアップされた動画は7月22日にアップされると、わずか2週間で64万回の再生数を記録した。
丹羽選手の原点には、社会人卓球選手だった父親・孝司さんと、もう1人の指導者の存在がある。
丹羽選手が生まれる前から卓球をやらせよう――ひそかにそう考えていた孝司さん。丹羽選手が小学校1年生の時だった。1つ上の姉と一緒に地元の「苫小牧ジュニア」に連れて行く。父の思いが通じたのだろうか。丹羽選手はすぐに卓球に夢中に。そこから父と二人三脚での練習が始まった。
スパルタ式指導だった。自宅近くの体育館で夜9時まで練習が続いた。時には口で叱るだけでなく、手も飛んだとか。
丹羽選手は卓球強豪の青森山田高校に進んだが、当時、父にこう言ったという。「一番キツイ練習だったのは小学生の頃だ」と。
一方で父・孝司さんは自身の指導に限界も感じていた。「世界を目指すには私の指導では間に合わない」。そんな頃、丹羽家と家族ぐるみの付き合いをしていた社会人卓球選手が丹羽選手を導いた。
父・孝司さんは「ある時、西村さんから『お前の指導は間違っている』と叱られたこともありました。もし西村さんがいなかったから、私が孝希をつぶしていたかもしれません」と明かす。
ダイヤの原石も磨かれなければ光を放たないように、良い指導者に恵まれず、埋もれていったスポーツ選手はたくさんいる。「日本のファンタジスタ」の原点には、2人の指導者がいた。
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