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タカフジ

尾上 精治社長
おがみ・せいじ/1948年生まれ。66年に日本サッシ入社。
70年東京都立商科短期大学卒業。75年にタカフジを創業。一般社団法人日本サッシ協会副理事長兼北海道支部長。

逆境をバネに道内トップのサッシ会社を築く

ビルサッシ分野で道内トップシェアの「タカフジ」を一代で築いた。幼少期は貧しく、夜間大学に通いながら仕送りし家族の生活を支えた。現在は「信頼を築く」を企業理念に全てのステークホルダーとの良好な関係を構築している。

父が急逝。夜学に通い、家族に仕送り

――事業内容は。

尾上 創業から事業内容は大きく変わっていません。ビルやマンション、学校、病院などのサッシを中心に建築用の金属製建具工事を手掛けています。サッシの道内シェアは業界トップクラス。リクシルなどのメーカーから供給を受けて、自社一貫で設計から製作、施工まで行っています。準大手ゼネコンや道内の大手建設会社などを主な顧客としています。

――生まれは。

尾上 父が炭鉱作業員のため産炭地で育ちました、幼少期に北九州市の門司区から美唄市に渡り、高校まで暮らしました。事故で父が亡くなってからは大変貧しく、家族の生活を支えるため高校卒業後は「日本サッシ」(廃業)に就職しました。入社から総務・経理畑を歩み、数字を読む力はこのときに学びました。一方で夜間は東京都立商科短期大学に通っていました。

――早くに責任者を任された。

尾上 日本サッシが工場を建てることになり、20代で所長に選ばれました。いまでいう地域貢献の思いもあって美唄市を推して工場を誘致しました。国内の炭坑が閉山するなかで、国は炭坑離職者を採用することを条件に補助金を出していた。約50人の炭坑離職者を採用しました。

――独立の経緯は。

尾上 仕送りで弟は大学まで行かせましたが、妹は中学校までだったこともあり、社長になればお金を稼げると思ったのがきっかけです。27歳の時に社員3人と独立しました。ただ、創業当初は本当にお金が無く、貧乏だったのでメーカーから門前払いされたこともあった。香典代にも困り母親に工面してもらったこともあります。まだ独身だったので「信用がない」と銀行から融資が下りないこともありました。

人との信頼を軸に生き残り続ける企業に

――転換期は。

尾上 私は会社を絶対につぶさないという強い信念のもと、売り上げを求めて、同業他社よりも安い価格でガンガンやった。他がつぶれる中で売り上げを伸ばしましたが年商10億円前後が限界でした。しかし、次男の智洋(現常務)が入社したことをきっかけに体制を見直しました。高い納期対応力かつ高品質を追い求めた結果、顧客の信頼も高まった。ここ数年は25億円前後で推移しています。昨年度は35億円を達成しました。

現在はリクシル製品の取り扱いは全国でもトップクラスに入っています。今後は他社製品の取扱量も引き上げる計画で、さらに新築需要の減少を見越しリニューアルの分野を強化します。また、断熱効果の高いドイツのシューコー社サッシの普及を目指している。危なかった時期を土地の売却益で乗り切ったことから、事業外で不動産賃貸収入も拡大します。

――今後のビジョンを。

尾上 従業員が力を発揮し、誇りを持って働ける未来永劫続く企業にしていきたい。そのためには「会社をつぶさない」「売り上げを拡大する」「利益を出す」は当たり前なことですがそれだけではだめ。重要なのは人を大切にすることです。まず社員に優しくなければならないし、メーカーの担当者からも信頼を得なければなりません。競争相手とも時には切磋琢磨していかなければならない。幸い私は日本サッシ協会の北海道支部長を長く務めているので、そのための業界の地位向上や仕組みづくりを考えています。企業理念である「信頼を築く」の通り、全てのステークホルダーと良好な関係を築いていきたいです。 

――採用と育成が課題です。

尾上 当社の従業員は20~30代が約6割を占めており、待遇面では業界でトップクラスだと自負しています。建設業界は営業や設計、施工など担当者によって成果が大きく変わる世界です。いまだに属人的な側面が多いが、「誰がやっても同じではない」ということに面白みを感じてほしい。採用難の時代ですが人材に最大限投資したことで優秀な社員が集まりつつあります。苦しかったこともあったが、いい部下や社員に恵まれたと思います。理想の企業像までにはまだまだ道半ばですが、今は「100年後も生き残り続ける企業である」と自信を持って言えます。

 

尾上智洋常務(中央)ら次世代が育ちつつある