【さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー】第12回・4丁目十字街は市内最大の繁華街だった(中)

 月刊財界さっぽろ2020年12月号より、新連載「さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー」が始まりました。

 筆者は札幌市の出版社「亜璃西社」社長でエッセイストの和田由美さん(写真)です。和田さんはこれまで「和田由美の札幌この味が好きッ!」といったグルメガイドブックや「さっぽろ狸小路グラフィティー」「ほっかいどう映画館グラフィティー」といった、新聞・雑誌等のエッセイをまとめた書籍を多数刊行されています。

 今回の連載では、札幌市内の「通り(ストリート)」や「区画」「商店街」「エリア」などの「マチナカ」(賑わいのある場所)を、毎月1カ所ピックアップ。その場所について、名前の由来や繁華街となっていく上での経緯、さらに現在に至るまでの変遷といった歴史と記憶を綴ります。

 今回は第12回「4丁目十字街は市内最大の繁華街だった(中)」です。

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 時が経つのは早いもので、来年の話をしても、鬼が笑わない時期になって来た。最近の街中トピックスとしては、4丁目十字街で常に時代のファッションをリードした商業ビル「4丁目プラザ」が、来年1月いっぱいで幕を閉じることが大きい話題だろうか。オープンが1971年というから、優に50年の歴史を有する。

 昨年5月に閉めた「ラフィラ」は、これまたオープン時の「松坂屋」から数えて46年の歴史を有したが、あっという間に建物は姿を消してしまった。近くを通ると意外に喪失感は大きく、ススキノの初めての店で飲んだり食べたりする時は、友人と駅前通り側の入口で待ち合わせたことが思い出される。

「ラフィラ」の建物を偲ぶには、金子修介監督の映画「ガメラ2 レギオン襲来」(96年)の激闘シーン(当時は「ロビンソン百貨店」)で破壊される映像を観るしか、術はないのだろう。とはいえ、4プラは未だ現役で、さよならを言う時間も残されているので、昔話をしてみようかと思う。

 札幌の街並みを激変させた「冬季オリンピック札幌大会」が開催されたのは、1972年2月のこと。当時の私は、大通公園を見下ろすビルに職場があり、性に合わない仕事だった損保会社のOLとして鬱々とした日々を送っていた。片言の英語なら喋ることが出来たので、オリンピックの開催期間中、札幌市が作った「善意通訳」のバッジをつけて街中を歩いたこともある。

 ところで、4丁目プラザのオープンは、その前年の9月3日のこと。地下鉄工事と並行して十字街を中心に建設された地下商店街のオープンは11月だったから、それより2カ月ほど早かった。地上9階、地下2階。当初は、駅前通りの拡幅工事で路面店から移転した近隣の商店が中心の〝寄り合い百貨店〟とも言え、地元色が濃かった。

 1階で思い出深いのは、札幌では一番古い「大丸4丁目プレイガイド」と並び、札幌市内2大プレイガイドと称された「プラザプレイガイド」。甲高い声を出す古株の女性が居て、私が72年に創刊したばかりのタウン情報誌「月刊ステージガイド札幌」の販売をお願いすると、快く引き受けてくれて、たくさん売ってくれた。50年近くを経た今も感謝している。

 ちなみに、鬱々とOL生活を送っていた私は、72年4月に転職してタウン情報誌(当初はタブロイド判の新聞)の編集部に潜り込んだものの、3カ月後には編集長が詐欺で警察に捕まり、その跡を継いでオーナーとなっていた――。寄り道をしている場合ではない、次に行こう。

 1階には、当時の私には縁がなかった華やかなブティックが並び、駅前通りに面した入口近くには、近年まで和装履物の「土肥商店」があった。ここの2代目が今、狸小路市場内にある居酒屋「めんめ」「いなり」「ごん」などの名店を営むオーナーであることを知る人は、少ないだろう。

 また書店は、地下1階に新刊の「維新堂」や古書の「一誠堂」があり、地下2階はグルメ街。前回紹介した老舗喫茶「西林」をはじめ、野菜ラーメンが美味しかった「味軒」、今やギョウザカレーが全国的に有名となった餃子の専門店「みよしの」などが入居していた。

 中でも記憶に残るのが、ごまそば「一茶庵」。タウン情報誌の世界に足を踏み入れたばかりの私は、まだ22歳。右も左も良くわからない状態だった。

 その頃、駅前通りに面して「三菱ショールーム」があり、事務局長の伊藤政蔵さんは博識の文化人で、色々な事を教えて下さった。その伊藤さんの紹介で、「一茶庵」のオーナー山極忠夫さんが主宰する「ごまそば一茶の会」に入会させてもらう。メンバーは、会長で画家の国松登さんや漫画家の清水祐幸さんなど錚々たる顔ぶれ。

 そばの産地で育った私だが、ごま入りそばなど見たことも聞いたこともなく、ビックリさせられたもの。そばは美味しかったが、毎回、柚子やコーヒーなど珍しい素材を練り込んだ変わりそばが出て、それを当てるのがなかなか難しく、肩身の狭い思いをした。とはいえ、国松先生が餅入りそば(力そば)が好物であることを知り、微笑ましく思えたもの。山極さんは後継者が居なかったので、92年にごまそば処「八雲」に店舗を譲って引退。「八雲4丁目プラザ店」は民芸調のインテリアも人気を呼び、今に至る。

4丁目プラザ7階の「自由市場」オープン当時の様子(株式会社4丁目プラザ提供) ©財界さっぽろ

 さて上階では、アクセサリーや古着、小物などを売る一坪サイズの店が並ぶ7階の「自由市場」が懐かしい。アンティークな家具がオシャレで、コーヒーも美味しい喫茶「南蛮倉庫」も好きだった。この自由市場は、ビル誕生から6年後の77年にオープン。当時、OL時代に同僚だった女友達が、ここにアクセサリーの店を出したこともあり、よく訪れた。

 また、同じフロアの「自由市場ホール」では、芝居をはじめ、コンサートや映画などさまざまな催しが行なわれた。その多くは、支配人だった飯塚優子さんが仕掛けたもの。そこから今や伝説の「駅裏八号倉庫」に繋がる。それは次回で!