【さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー】第08回・南3条通りは音楽喫茶の宝庫だった(上)

 月刊財界さっぽろ2020年12月号より、新連載「さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー」が始まりました。

 筆者は札幌市の出版社「亜璃西社」社長でエッセイストの和田由美さん(写真)です。和田さんはこれまで「和田由美の札幌この味が好きッ!」といったグルメガイドブックや「さっぽろ狸小路グラフィティー」「ほっかいどう映画館グラフィティー」といった、新聞・雑誌等のエッセイをまとめた書籍を多数刊行されています。

 今回の連載では、札幌市内の「通り(ストリート)」や「区画」「商店街」「エリア」などの「マチナカ」(賑わいのある場所)を、毎月1カ所ピックアップ。その場所について、名前の由来や繁華街となっていく上での経緯、さらに現在に至るまでの変遷といった歴史と記憶を綴ります。

 今回は第8回「南3条通りは音楽喫茶の宝庫だった(上)」です。

   ◇    ◇

 その昔、♪南三条泣きながら走った、と唄ったのは、中島みゆきである。1991年リリースのアルバム『歌でしか言えない』に収録された「南三条」という曲の中でのこと。

 ちなみに70~80年代の南3条通りには、ジャンルを問わずキラ星の如く音楽喫茶が並び、若者たちから 〝音楽喫茶の聖地〟とも呼ばれた。まずはジャズ喫茶から紹介したい。

 西5丁目の狸小路ビル地下には、ビュッフェの絵をデザインしたマッチが絶大なる人気を博した老舗「B♭」。南向かいのホクシンセンター地下には、前衛的な造りとレコードの品揃えでジャズ喫茶の王道を行くと絶賛された「act:」、1階にはブルースとウェストコースト系ロック中心の「ぽっと」、2階には壁や床をブルーに統一し、夜はしんみりとカクテルも飲める「BEAT」があった。

 その隣の南パークビル地下には、設備がオーディオマニア垂涎の的だった「ニカ」、2階には酒をちびちび飲みながらジャズやサザン・ロックを楽しめる「ハンプティ・ダンプティ」が入居。同じ階に、今や伝説の飲み屋「雑居胞」があったことも付け加えておこう。

 そのまた隣の有楽センタービル5階には、本格的なジャズの生演奏が楽しめるライブハウス「びーどろ」。北大通り8丁目にあったジャズ喫茶「コンボ」店主と後述する「MOJO」の常連客が共同で開いた店である。若者から熱狂的に支持され、東京から来た山下洋輔トリオ、若き日の福居良トリオの生演奏などを聴いたもの。

 南3西5の井川ビルを経て南3西6長栄ビル地下に移転した老舗「MOJO」も、一貫して南3条通りにこだわり、ほろ酔い加減でジャズを聴きたい人には最適だった。

 南3条通りに面してはいなかったが、南3西4西向きにはプロモーターも務める高橋久さんが店主の「BOSSA」(南3西4シルバービル2階で今も健在)、その真向かいにはイージーリスニング中心の「A&M」、南3西4の角地に建つ名店ビル4階には、ピアノ生演奏も聴けたハードバップ中心の「鳩首協議」があり、粋なネーミングが妙に懐かしい。

懐かしい当時の音楽喫茶のマッチたち ©財界さっぽろ

 次はロック喫茶を紹介しよう。三条美松ビル2階には、ロックとシカゴ・ブルースが聴ける「祐天堂」、西4丁目には、ハードロック中心だが気軽に寄れて肩の凝らない「異間人」、ウェストコースト系のロックや本格ソウルを楽しめる「月光仮面」があった。

 ソウル喫茶では前出の狸小路ビル地下に、南部のサザン・ソウル中心でメンフィスサウンドもかかる「ソウル・トレイン」。6丁目には、緑と黄とレンガ色の3色でまとめられたオシャレな路面店「しゃらく」もあり、客層は大学生を中心に20代の若者たちで賑わった。

 西2丁目の川上ビルには、クラシック喫茶「ロマンツアー」があり、1、2階は普通の喫茶店だったが、3階はクラシック専門。バロックを中心にピアノ曲もそろえ、若くて美しい女性の常連客が目立った。

 とまあ、南3条通りにこれほど音楽喫茶が数多くあったとは、今考えても 〝驚き桃の木山椒の木〟である。が、この南3条通りで忘れてならない店がもう一軒ある。それが、音楽プロデューサーでもあった和田博巳さんが、西6丁目で76年にオープンした「和田珈琲店」。後の「バナナボート」である。

 当初は普通のコーヒー店だったが、3年後の79年に突如としてトロピカルな音楽喫茶に変身した時の衝撃は、今でも忘れられない。人気イラストレーター河村要助によるバナナをあしらったドデカイ看板が目印で、店前には観葉植物が置かれ、白壁に市松模様の床が斬新。流れる音楽は、サンバやサルサなど中南米の音楽とニューミュージックだった。

 それまで、反骨のルポライター・竹中労に心酔し、著作(『日本映画縦断』全4巻〈75~76年〉、傑作『鞍馬天狗のおじさんは―聞書アラカン一代』〈76年〉など)を愛読。学生運動の余波を引きずりつつ薄暗い穴蔵のような空間で音楽を聴き、行きつけの酒場で口論ばかりしていた私には、余りにも眩しい店だった。

 しかもその後、札幌にはコンクリート剥き出しの壁と天井にプロペラが回るカフェバーが続々と登場する。79年を境に街並も大きく変わったが、時代の空気感も変わった。恨み節をメインに〝わたし〟を唄い続ける中島みゆきとは正反対に、軽やかに〝あなた〟を唄うユーミンこと松任谷由実がライバルの如く、表舞台へ登場してきたのだ。

 このバブル期に、南3条通りの古いビルは次々と姿を消す。南に向かって右から有楽センタービル、南パークビル、ホクシンセンターと並ぶ3棟も、解体されて空き地に。数々の名店が消えて行ったが、その精神は飲食店10軒の連合体「十転満店」の活動を経て、今もこの街に息づき、受け継がれている。

 次回は、それについて語ろうと思う。