寿産業
すずき・しゅんいちろう/1973年生まれ。99年立命館大学経営学部卒業。米国留学を経て、01年日本スチール(現大阪製鉄岸和田工場)入社。03年寿産業入社。常務、専務を経て、18年社長に就任。
祖父と父の思いを胸に「自創経営」を醸成
国内トップシェアを誇るローラーガイドメーカーの指揮を執る鈴木俊一郎社長。先人が築いた基盤に、〝自創経営〟という企業文化を醸成した。祖父や父から得た学びや今後のビジョンについて聞いた。
〝相手のために〟。創業者の思いを継承
――ローラーガイドメーカーとして国内トップシェアを誇っていますね。
鈴木 これまで国内外に2万台以上を供給し、国内の製鉄所の約8割に納入しています。ローラーガイドは条鋼製品の製造でなくてはならない産業機械です。条鋼製品の多くは、高温に熱した鋼片を圧延機に通し、さまざまな形状に加工されますが、圧延機の〝入口と出口〟に設置するのがローラーガイドです。正しい角度や位置で圧延機へと誘導する役割を担い、品質と歩留まりの向上に貢献しています。
――1951年に創業されました。
鈴木 創業者は祖父である鈴木俊也で、軍需工場の営業部長として富士製鐵(現・日本製鉄)を担当していました。時代の流れで工場が廃業することになり、そのあいさつに富士製鐵に伺った際、「出入り業者として認定するから会社を起こしなさい」と背中を押されたことがきっかけです。祖父の誠実で真っすぐ、相手のためを思う人柄が信頼されていたようです。
――俊也氏から学んだことは。
鈴木 現在の当社の根幹となっている「お客様第一主義」という理念の原点が祖父の存在です。〝お客様のため〟というマインドがあってこそ、よりよい仕事ができるというものです。時代に応じて〝やり方〟はブラッシュアップしなければなりませんが、〝在り方〟は不変です。
――ローラーガイド製造に至った経緯は。
鈴木 創業当初は富士製鐵で使用する試験用機器や検査機器の製造などを行っていました。転機は63年に、富士製鐵室蘭製鐵所から声をかけていただいたことです。当時、ローラーガイドは海外製一択で、図面がなく部品交換もままならない、なにより歩留まりが低かった。価格も高かったため「国産化を図りたい」「より安価に数をそろえたい」という富士製鐵とともに開発に着手しました。改良に改良を重ねて完成した国産ローラーガイド第一号は、条鋼製品の品質向上に大きく寄与しました。
先人が築いた基盤に企業文化を醸成
――当時、ローラーガイドの営業を担っていたのが二代目社長で現最高顧問の俊幸氏ですね。
鈴木 祖父が0から1をつくり、父が1を10に拡大しました。当時、製鉄所ではロスが出て当たり前、歩留まりも「こんなもんだ」という意識が根強かった。こうした状況下で、ゲームチェンジャーとして全国の製鉄所に営業し、時には鉄鋼業界の集まりに合わせて各メーカーの担当者が宿泊する旅館でチラシ配りなどもしたそうです。足で稼ぐ草の根活動に加え、生産体制の合理化など鉄鋼業界を取り巻く環境の変化も相まって導入が加速し、北海道から九州まで全国展開するに至りました。
――2018年に社長に就任されました。
鈴木 03年に入社する前に、250種類もの条鋼製品を製造している製鉄所で作業員として3年ほど修業しました。ローラーガイドを〝使っている側〟で働いたわけですが、これを後押ししたのは父です。ローラーガイドが製鉄所にとって必要不可欠な〝肝〟であることを再確認できましたし、ものづくり企業として決して妥協してはいけないということも実感できました。
また、社内に対しても「現場を知っている息子が来た」ということで発信力と説得力が増しました。父には感謝しています。
――社内改革にも取り組まれたようですね。
鈴木 トップに就くタイミングで「自創経営」を導入しました。社員が自ら目標を立て、そこから逆算して短期目標を設定し、進捗状況に応じて計画を立て直すことを繰り返す仕組みです。計画・行動・見直し・そして行動という業務フローが習慣化し、社員の主体性と行動力が格段に向上しました。この企業文化は当社の財産です。
――今後の方針は。
鈴木 ローラーガイドは国内で競合他社がほぼいません。フルオーダーで一からつくり、納入後のメンテナンスや修理も含めて、とにかく大変だからです。必要なのに他社が避ける仕事、やりたがらない仕事を率先してお受けすることこそお客様第一主義。これからも〝寿イズム〟として踏襲していきます。
今後、鉄鋼業界においても労働人口の減少は加速します。製鉄所の自動化や省人化のニーズは高まり続けますから、知識と技術で応えていく。鉄を溶かす電気炉や貯蔵設備など、上工程分野にも挑戦していきたい。