社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (27) ―相模国・武蔵国(神奈川県)の北海道開拓

 神奈川県は以前、武蔵と相模の二つの国からなり、山梨や静岡に接する「相模」が県の中心地でした。小田原が城下町として栄えていたのに対し、現在の横浜の沿岸部周辺は辺鄙な漁村にすぎませんでした。しかし幕末に黒船が来航して横浜港が開港すると、外国の文化や風物が日本に入る窓口となって急速な発展を果たしました。今回は北海道の開拓に関連する小田原と横浜について綴ります。

 1869(明治2)年10月12日、北海道本府を建設する命を受けた島義勇は開拓三神を背負い、難渋を重ねながら銭函(小樽市)に到着。円山(札幌市南区)コタンベツの丘に登って本府建設の構想を巡らせました。島の目に入ったのは、原野の中心を南北に一直線に流れる用水路。この用水路を東西の基点として「他日五州第一の都(いつの日か世界一の都)」を目指し、島は驚くべき規模の壮大な都市建設に取りかかります。これが現在の札幌市です。

 この用水路は1866(慶応2)年に開削された「大友堀(明治7年に創成川に改名)」。建設したのは大友亀太郎です。1834(天保5)年に相模国下足柄郡西大友村(現・神奈川県小田原市)の農家に生まれた大友は、勉学を好み「自分は銭を貯めるより善行を積みたい」と二宮尊徳(金次郎)の門に入ります。ここで、亀太郎は「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を修得します。

 1854(安政元)年、江戸幕府により箱館奉行所が開設され、筆頭奉行となった堀織部正は蝦夷地開拓のため二宮尊徳(亀太郎と同じく小田原出身)の助力を要請。しかし二宮は病床についており、1856(安政3)年にこの世を去りました。その二宮に代わって蝦夷地に赴いたのが大友でした。上磯(現在の渡島管内木古内町)と亀田郡(同じく七飯町)の開拓に取り組み、上磯・亀田に72戸の移住民を受け入れて開拓に取り組みました。名を故郷に因んだ大友に変え、1858(安政5)年から7年間かけ、この地の開墾を成し遂げたのです。

 大友の能力を高く評価した箱館奉行は、石狩の開発を打ち出し、その差配を命じます。大友は「石狩最良ノ原野は札幌ナリ、其の要は用水路オヨビ道路等の弁理を量リ……」として、用水路工事を開始。総勢450人による突貫工事で全長4キロメートルの水路を築きました。大友が開拓した地区は元村(現在の札幌市東区)となり、移住者が増加していきました。

 1872年、大友は開墾した札幌村(元村)と苗穂村を開拓使に引き渡し、若森県(現・茨城県)、島根県、山梨県の役人を歴任し、1875(明治7)年に故郷の大友(神奈川県小田原市)に戻り戸長に。その後、神奈川県議会議員を4期務めます。1897(明治30)年、64歳で他界。墓所は小田原市西大友の盛泰寺にあります。大友が北海道を離れた翌年、札幌元村は札幌新村と合併して札幌村となり、今日に引き継がれています。

 神奈川県からの農業団体移住は1893(明治26)年の砂川(現在の砂川市)と、1905(明治38)年の本別村(現在の十勝管内本別町)が記録されていますが、詳細については把握できませんでした。屯田兵制度での北海道移住は、宮崎県・沖縄県とともに43都府県の中でゼロ。一家族も入営が記録されていません。

 神奈川県からの北海道移住者は1882(明治15)年から1935(昭和10)年までの54年間で4948戸と全国都府県で31位となっており下位の位置づけ。ですが、北海道発展の歴史において神奈川県の影響は極めて大きく、その端緒となったのが1853年の黒船来航です。

 マシュー・ペリー提督に率いられた米国艦隊は1853年7月8日(嘉永6年6月3日)夕方、江戸湾の入口となる現在の神奈川県横須賀市浦賀沖に来航、停泊しました。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(極上のお酒で、蒸気船にかけている) たった四杯(四隻)で夜も眠れず」と江戸中が大騒ぎの様相となったわけですが、黒船の来航した浦賀は当時、久里浜にある小さな漁村でした。翌1854(嘉永7)年には横浜村(現在の横浜市)で日米和親条約が締結されます。

 ペリーの来航と同年にはロシア帝国からエフィム・プチャーチンの使節が長崎にやってきたこともあり、幕府は北方警備の重要性と予想される開港交渉に鑑み、前出の堀を中核とする調査隊を蝦夷地・樺太に派遣。ペリーは1854年には箱館にも来航し、開港を求めます。諸外国との関係が急激に変化する中、幕府は蝦夷地の管轄を松前藩に任せられないとして箱館奉行所を開設。本ブログ第25回でも紹介したように、箱館は横浜に次いで開港。貿易港として大きく発展することとなり、北海道開発の先陣を切ることになります。

 なお2011(平成23)年に上川管内下川町と横浜市戸塚区上川地区、戸塚区役所の三者間で「友好交流契約」が締結されています。発端は、下川町の管理する森林の保全・整備によって得られるカーボン・オフセットを共有しようとするものです。カーボン・オフセットは、森林による二酸化炭素(CO2)吸収量を排出量と相殺するもので、下川町の吸収の一部を戸塚区の排出から差し引くというものです。毎年、小学生の相互受け入れや、下川町の間伐材を使用した工作教室の実施など、相互交流が行われています。