社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (19) ―上州(群馬県)の北海道開拓

 前回更新した「栃木県の北海道移住」では「足尾鉱毒災害と明治43年の渡良瀬川氾濫で、栃木県旧谷中村や周辺町村から66戸210人が1911(明治44)年4月、小山駅から特別列車に乗り、北海道常呂郡サロマベツ原野に向け出発」と書きました。

 この特別列車には群馬県からの移住者142戸411人も乗っていたのです。足尾鉱毒と渡良瀬川の洪水は、栃木県民だけでなく群馬県民にも多大な被害をもたらしました。

 渡良瀬川は、栃木県日光市と群馬県沼田市との境にある皇海山(すかいさん)に源を発し、群馬・栃木の県境付近を東南東に流れ、茨城県を通り埼玉県で利根川に通じています。鉱毒や渡良瀬川の氾濫は群馬、茨城、埼玉に至る流域四県の民を苦しめてきたということになります。

 1910(明治43)年8月に関東地区を中心とした大水害が発生した際、渡良瀬川の群馬県内流域にも甚大な被害が発生。内務省は避難民に対して北海道への移住を薦めます。これに応じたのは4つの団体でした。4団体計411人が災害の翌年4月に、前出した旧谷中村などの栃木県民66戸210人と北海道に向かったのです。

 群馬県からの団体移住は群馬団体(36戸944人)、邑楽郡(おうらぐん)団体(68戸184人)、佐波郡団体(24戸98人)、そして吾妻郡団体(14戸35人)。この内、邑楽郡団体は洪水だけでなく、足尾鉱毒による被害も長年にわたって受け続けていたといいます。

 群馬県から移住した人たちの大部分は小作農で自己資産も少なく、補助金頼りの移住でした。群馬県商工会の会報記録によれば「移民の多数は、従来自己の所有地は殆どなく、今回の特典(補助)により移住・食料・農具その他の補助を受け、しかも容易に一戸分五町歩の貸付を受け、将来その五分の四の開墾を完了すれば、全ての所有権を獲得することが出来、彼らにとって大いに希望を抱かせるもの」とされていますが、いかにも役人の見方で、移住者の実際の苦労は全く記述されていません。

 そのような中、4つの団体は事前に県庁がおこなった調査に従い、函館到着後栃木団体とは別れ、それぞれ割り当てられた目的地に向かいます。

 群馬県群馬郡室田町(現・群馬郡榛名町)出身の群馬団体が割り当てられたのは、虻田郡東倶知安カシプニ原野(現・虻田郡京極町字東花)。羊蹄山の麓でカシプニ川が流れている地です。

 邑楽郡(おうらぐん)(現・群馬県邑楽郡)出身の邑楽郡団体は、虻田郡真狩村ノボリエンコロ原野(現・虻田郡留寿都村登地区)。翌年には村内小学校連合運動会が開催されていますので、移住者の子弟も参加したことでしょう。

 佐波郡豊受(現・群馬県南部の佐波郡伊勢崎市大字国領)出身の佐波団体は、暑寒別岳の麓、尾白利香川(おしらりかがわ)の最上流部。雨竜郡雨竜町国領を移住の地としました。地名の「国領」は団体の出身地より名付けられたものです。

 移住者は特別教授場の開設を道庁に要望し、1914(大正3)年4月、雨竜村立川上簡易教習所国領分教場として開校しています。なお、児童数の減少で1945(昭和20)年3月に閉校となっています。

 閉校当時まで30年間教鞭を取った井向安氏は「国領移住の歌」を作詞作曲しています。移住者たちの苦労と心意気が現れていますのでその一部を紹介します。

 1 彼らの住める国領は明治四十四年の移住にて
 真白き雪も黒色に変わる四月のはじめなり
 穿(は)き馴(な)れざらん(履きなれない)ツマゴ(わらの履物)はき
 或いは山越え川に沿い

 2 手を取り合って助け合い 歩みつ辿りつようようと さてもこの地に来てみれば 西も東も大木の 天を覆いてその様は如何に名状すべからん

 5 五月半ばとなりぬれば 見渡す限り一面の熊笹小笹地をぬって
 野獣の吠える声高く 谷間を通してものすごく
 かかる淋しさこの土地

 6 或いは木を切り草を刈り
 道なきところに道をつけ
 橋なきと ころに橋を架け
 あるいは学校建設し艱難辛苦(かんなんしんく)を忍びつつ開拓精神おこたらん

 7 つとめはげみて今こそは 開けた部落となりぬらん

 さてこの土地の産物は、色豆類をはじめとして菜種・小麦・はだか麦・など重要産物は多いものの、移住小屋の入り口はムシロ1枚下げているだけの粗末なもの。雪でも降れば、家の中は銀世界。冬期間はキツネ、クマなどの狩猟、また雨竜市街への出稼ぎも行って生計をたて、やっと耕地の付与となりました。

 群馬県(上州)では「かかあ天下(でんか)と空っ風」という言葉が有名ですが、これは自分の妻に感謝し、自慢する「ウチのかかあは天下一」が本当の意味だそうです。北海道での苦難が続いた生活の中で、天下一の「ウチのかかあ」が生活を支え、活躍したことでしょう。

 群馬県から北海道への移住は1882(明治15)年から1935(昭和10)年まで3891戸で全国都府県で36位です。屯田兵としては21戸117人が入営しています。