社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (16) ―越前藩(福井県)の北海道開拓 前編

 今から560年以上も前の1457(長禄元)年、アイヌ三大蜂起の一つ「コシャマインの戦い」が発生しました。和人の暴挙に怒ったアイヌ民族が立ち上がり、コシャマイン親子率いる5000の大軍で和人地を攻撃。函館半島南部に築城した12の和人館のうち10館を次々に攻略し、上ノ国(江差地方)にあった「花沢館」に向かいます。

 ここに寄宿していたのが越前(福井県)出身の武田信広でした。彼は和人軍の先頭に立って戦い、コシャマイン親子を殺害して和人の窮地を救います。武田は上ノ国の守護職・蠣崎氏に請われて養子となり蠣崎信広を名乗り、後に松前藩の始祖となった、とも言われています。

 蝦夷地開拓のグランドデザインを描き、門弟の最上徳内とともに幾多の蝦夷地情報を発信した、本多利明も越前出身と言われています。本多の先祖は加賀(福井)藩士でその後、越後(新潟)に移転し、利明は越後で生まれました。

 このような関係から、越前は古くから蝦夷地と交流し、親近感があったと思われます。

 福井県の若狭湾・敦賀湾に位置する敦賀湊・越前湊・三国湊・小浜湊は天然の良港。北前船を通し蝦夷地との交易で栄えました。

 2017年4月には「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」として、同県敦賀市・南越前市が、函館市・松前町などとともに日本遺産へ認定されています。

 また、現在の同県坂井市にある三国湊も、2018(平成30)年5月に小樽市など27の自治体とともに追加登録されました。福井県の各寄港地・船主集落には建物など保存されており、蝦夷地との緊密な関係を窺い知ることができます。

 越前の大野藩の蝦夷地開拓について触れます。大野藩(現在の福井県大野市)は県北東の内陸に位置する四万石(実質一万石)の小藩。藩校・明倫館で人材を育成し、学問を藩政の基盤として、また藩財政建て直しのため、大阪・箱館に蝦夷物産取扱い店舗を開設し、蝦夷地との関係を強めていました。

 1855(安政2)年、幕府は蝦夷地開拓と防衛を諸藩に呼びかけます。大野藩はこれに応えて「大野藩は厳寒の地であり領民も寒さに馴れている」と、蝦夷地開拓の意欲を幕府に伝えます。

 残念ながら蝦夷地開拓の許可は下りませんでしたが「蝦夷が駄目なら北蝦夷(樺太)がある」と、再度申し出。幕府は願ってもないとして、樺太移住の申し入れを許可します。二本マストの藩船「大野丸」が1858年に完成、1860年3月、10名の大野藩士・20名の領民を引き連れ敦賀湾を出航。箱館を経て翌年4月、樺太・鵜城(うしょろ)に到着。開拓の拠点を築きます。

 鵜城の開拓と防衛を任されたのが屯田司令の早川弥五左衛門(開拓神社に祀られています)。人物画を見ると頬骨が高く見事なヤギ髭の御仁です。

 鵜城は厳寒の地。ロシア兵の侵攻もあり、言語を絶する艱難辛苦の中、大野藩一党は懸命に生き抜きました。しかし藩主が隠居、総督を務めた家老の死、大野丸の難破で万策尽き、樺太の地は明治新政府に返還。7年間にも及ぶ樺太屯田事業に終止符を打ちました。ですが、早川弥五左衛門を中心とした鵜城(北緯50度)開拓は、その後の北海道・樺太開発に大きな一石を投じました。

 福井県から北海道への移住は1882(明治15)年から1935(昭和10)年の間で2万7392戸(約10万人)。都府県では福島県に次いで9位となっています。

 北海道への移住が本格的に始められたのは明治10年代後半からで、1886(明治19)年に開設された北海道庁が積極的に移住政策を進めたこともあり、明治20年代には移住者が急増しました。

 道庁の施策では30戸以上の同郷人が移住する場合、一戸あたり1万5000坪を開墾できることになっていたため、坂井郡磯部村(現・福井県坂井市丸岡町)、南条郡神山村(福井県武生市)などから住民が応募し、空知郡栗沢村、天塩郡遠別原野に団体移住しています。

 1890(明治23)年、福井市大野郡富田村出身の林孫右衛門は同郷人8人とともに三石郡三石村歌笛(現・日高支庁新ひだか町)へ移住。その後、同郷人を中心にこの地に仲間を迎え入れ、1897(明治30)年にはその数は100戸に及んで「越前部落」を形成。明治後期には移住者が中心となって「歌笛尋常小学校」を創設し、子弟の教育に力を入れました。

 自然災害による移住も記録されています。

 1895(明治28)年の福井水害による田畑の被害で、ニセコ町松岡農場の小作人募集に応じ、翌年に同農場へ」移住したことがニセコ町史に記録されています。

 また、1895年・96年に相次いだ凶作と96年の洪水が九頭竜川流域の住民に打撃を与え、翌97年、98年に十勝池田町下利別(しもとしべつ)や、豊頃町牛首別(うししゅべつ:現中川郡豊頃町)に生活の場を求め移住しました。

 95・96年の北陸水害では足羽川(福井県福井市)も氾濫し、福井県大野郡の数村が越前団体を結成。98に帯広市大正村(帯広市の南東部)に団体移住しました。97・98年だけで6000を超える人たちが北海道に移住しています。