社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (15) ―加賀藩(石川県)の北海道開拓

 北前船については「(13)新潟県編」でも触れましたが、能登半島に位置する石川県は、加賀国の時代から新潟県とともに多くの寄港地を有し、蝦夷地と関西との交易の要となっていました。

 今回はかつて日本一の富豪の村と言われ、今も北前船主の屋敷が現存する同県加賀市橋立町出身で、小樽商科大学教授の高野宏康氏による調査を紹介しましょう。

 石川県にはかつて北前船が寄港した橋立町、黒島(石川県輪島市)、七尾市(能登地方の中心都市)、金石(石川県金沢市北西部)、福浦(石川県志賀町:能登半島西部)の各港があり、小樽市とは深い関係がありました。

 小樽には石造りの倉庫が多く残り、今なお観光の名所となっていますが、これらの倉庫の多くは石川県出身の北前船船主が営業用倉庫としてつくったものです。

 たとえば旧小樽倉庫(色内2丁目1-20)は、1890(明治23)年から1894(明治27)年にかけて、橋立出身の西出孫左衛門と西谷庄八が建設。旧大家倉庫(色内2丁目3-11)は1891(明治24)年に加賀市の四代目大家七平が、旧増田倉庫(色内3丁目10-19)は1903(明治36)年に橋立出身の増田又右衛門が建てています。さらに旧広海倉庫(色内3丁目10-19)は、1889(明治22)年、加賀市瀬越町出身の五代目広海二三郎が建造したものです。

 今なお現存するこれらの倉庫からは、石川県人が北前船を通じ、積極果敢に北海道へ進出してきたことが窺われます。

 さて、2隻の千石船を駆使し、函館を拠点に千島漁業で巨万の富を築いたのが、加賀市橋立町、当時は加賀国橋立村出身の初代平出喜三郎(ひらできさぶろう)。平出は箱館戦争で榎本武陽軍を支援し、武器弾薬・食料を運送した義に篤い人物です。

 箱館経済界の重鎮として活躍した平出は1901(明治34)年、北海道初の衆議院議員になっています。その初代を継いだのが二代目平出喜三郎(養子)。二代目は北洋漁業の母船式沖取り漁業を推進し、函館は遠洋漁業の基地として栄えました。二代目も衆院議員を通算4期務めています。

 金沢市史によると、明治初期、根室など道東に漁業を目的として移住した人たちの記述があり、金沢区下百々目木(どどめき)町の石川県人が1876(明治9)年頃から根室や択捉島で漁業を営んでいたそうです。1879(明治12)年には、択捉で漁業をおこなっていた金沢士族が「汪網社」を創設したという記録もあります。いずれも石川県から航行する北前船との関係があったのでしょう。

 個人的な話ですが、私、舟本(四代前迄は船本)の先祖は能登半島の先端、富山湾に面した珠洲市です。名字からすると、船問屋を営み、北前船にも関係があったのではないか、といった妄想が膨らみます。

「汪網社」は所有船の事故で打撃を受け、1883(明治16)年に同じ金沢藩士の設立した「起業社」に引き継がれました。起業社は同じ年、岩内郡梨野舞納村(りやむないむら:現・後志管内共和町前田)に移住者受け入れのための小屋掛けなどを準備。翌1884(明治17)年には金沢藩士28戸152人を迎え入れました。

 その後、移住者は1887(明治20)年までに79戸、その10年後の1897(明治30)年には、他府県出身者を含め340戸にまで拡大したと記録されています。またこの地から現在の雨竜郡幌加内町や名寄市に入植した者もいたようです。いずれも北陸人特有の粘り強い努力で開拓に勤しみ、成功した移住団体と言われています。

 前田地区では移住の翌年、子弟に教育を施すべく「起業社学習塾」を設けました。これは後の「町立前田小学校」へと発展しました。同小は1982年に閉校しましたが、その跡地には記念碑と二宮金次郎像が今も残されています。

 また1886(明治19)年には、移住者がこの地で開拓に専念できるよう仮の神社を建立。翌年、石川県金沢市の尾山神社から、加賀藩祖・前田利家公の分霊を受けて前田神社としました。現在も共和に住む移住者・住民の心の拠り所になっています。

 自然災害で田畑が荒廃し、家族で生き残るために北海道への移住を決意された方々もいます。

 1895(明治28)年、石川県内の霊峰・白山山脈の白滝で大洪水が発生。その後8人が空知管内奈井江町に移住しています。同町には白山開拓百年を記念した石碑が建立されており、碑文にはこう刻まれています。

「明治28年石川県白峰村から度重なる手取川の氾濫により、新天地を北海道に求めて、8名がこの地に入植されて以来今日の白山がある。開拓者は、あらゆる苦境を克服し、血のにじむような開拓への情熱と愛郷の精神をもって我が郷土白山を築かれた」

 また、1895(明治28)年とその翌年の北陸水害では大日川が氾濫。石川県能美郡新丸村の住民が被災し、1897(明治30)年に帯広市大正へと移住しています。さらに同年にはウンカ(殿様バッタ)の大群による、いわゆる蝗害が発生。甚大な被害を及ぼし、多くの農民が郷里を捨て道内へと移住しました。

 また、石川県は都府県別では最も多くの屯田兵を北海道に送った県とされています。492戸(家族を含め約2千人)が入植・入営したと記録されています(堀口敬「屯田兵名簿」より)。

 1875(明治8)年から1889(明治22)年までの士族屯田兵時代には165戸が入営。札幌市内では琴似(2戸)、篠路(32戸)、札幌近郊では江別(6戸)、篠津(5戸)、野幌(29戸)、胆振管内では室蘭の輪西(20戸)、根室管内では根室の和田(71戸)と、道央、道東が中心です。

 また1890(明治23)年から1899(明治32)年の平民屯田兵時代には、釧路管内厚岸町の太田(116戸)、空知管内の美唄市(2戸)と高志内(2戸)・茶志内(1戸)、滝川市の江部乙(44戸)、秩父別町(16戸)、深川市の一已(18戸)・納内(7戸)、士別市(2戸)、剣淵町(11戸)、網走市の野付牛(100戸)、湧別町(18戸)と、全道各地に分散入営しています。

 なお、アイヌ民族とともに生活し、その歴史と文化を研究されている札幌大学の本田優子先生も金沢市出身です。