社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (10) ―仙台藩(宮城県)の北海道開拓

 1869年、蝦夷地が北海道と命名され、開拓使が置かれて本格的な開拓が始まりました。その先陣を切ったのが、仙台藩の支藩を中心とする士族移民でした。戊辰戦争で仙台藩を中核とする「奥羽越列藩同盟」が結成されますが、明治新政府軍に比べ火力に劣る同盟各藩は次々と敗北し脱落。戦後の沙汰は極めて厳しいもので、亘理(わたり)・岩出山・白石といった仙台藩各支藩の石高は従来の30分の1から25分の1に減らされ、藩士は「住むに家なく」「食うに米なく」「行先知れず」に陥りました。各支藩の藩士は自らの生き残りをかけ、また北方の守りを担うことで汚名をそそごうとの心意気で移住してきたのです。

 1870年3月、伊達邦成(くにしげ)以下、亘理藩家の第一次移住者250人は、雪の降る中室蘭に到着。その後有珠郡に向かいます。開拓は当然困難を極めましたが、同郷人として結束し合い励まし合いしながら森を切り開いていく日々を過ごしました。さらには西洋農具の導入による大規模化、果樹栽培、製糖・製麻工場の建設、和牛の飼育などの事業を起こし、入植から10年後には人口1800人を超えるまでに拡大。1900(明治33)年には近隣5カ村が合併し伊達町(現・伊達市)となって発展していきます。

 亘理藩よりもさらに困難を極めたのが、邦成の実兄・邦直(くになお)率いる岩出山家の一行でした。移住団161人を乗せた船は、一行が室蘭で上陸している間に出航してしまい、目的地の聚富(しっぷ:現石狩市)まで徒歩で行かなければなりませんでした。聚富は不毛の地で作物は実らないまま1年が過ぎ、空腹と落胆の中でようやく石狩川下流の当別の地に行き着きます。3次に亘った開拓は次第に成果を上げ、今日のような石狩管内に冠たる穀倉地帯の礎となりました。

 仙台藩祖・政宗(17代)の右腕・名参謀として知られる“片倉小十郎”が開いた白石家は、明治政府から幌別郡への移住支配を命じられ、第一次17戸、第二次45戸が移住します。こちらも開拓は困難の連続で、1877(明治10)年に藩主の長男で一行を率いた伊達景範が、30人を連れて札幌(現・白石)に逃れる有様でした。残された移住者は、景範の息子・景光を迎えて開拓を続行。現在の登別市内にある「伊達時代村」では、その苦難の一端に触れることができます。

 白石家移住の第三陣・600人を率いたのは、弱冠20歳にして家老職に就いていた佐藤孝郷(こうぎょう)。一行の乗った咸臨丸(かんりんまる)は、木古内沖で座礁するも辛うじて助かり、小樽・銭函を経て石狩の番屋に辿り着きます。開拓使長官・岩村通俊の助力を得て、一行は豊平川の東地区で住居を建設。翌年から開拓に取りかかります。この地は岩村長官から故郷に因んで「白石村」と名付けられました。その後は読者の方々もご存じの通り、今日の札幌市白石区として発展していきます。

 片倉家第三陣600人の内241人は、岩村長官の指示で発寒(上手稲)の開拓に取り組みます。指揮したのは片倉家家老添役の三木勉。この地は手稲町を経て現在は札幌市手稲区となっています。

 伊達支藩の士族移住者が、開拓のかたわらで取り組んだのが子弟の教育。有珠移住団は後の伊達小学校となる有珠郷里学校を、当別へ移住した亘理藩の祐筆家老・鮎田如牛(じょぎゅう)は、私塾を設け、後の当別小学校となりました。また、白石村には善俗堂学問所が開設され後の白石小学校として開校。手稲時習館は手稲東小学校へと発展、現在まで歴史を積み重ねています。本道における子弟教育の端緒は、この各支藩士族屯田兵によって基礎が築かれたと言えるでしょう。

 明治2年から4年までの2年間、政府は「蝦夷地開拓のことは、今後諸藩士族・庶民に至るまで、志願次第を申し出た者に相応の地を割譲する」と公布。いわゆる分領支配が実施されました。同年、仙台藩士142人が日高管内の沙流郡に入植し、明治4年には札幌・平岸村に65戸、生振(おやふる)村に29戸が入植したと記録されています。

 農民の団体移住としては、1880(明治13)年に有珠郡門別村で48戸が、1897(明治30)年に釧路地方の阿寒町、1905(明治38)年に留萌地方の小平村に、1911(明治44)年にオホーツク地方の雄武町、元号変わって1913(大正2)年にはオホーツク地方の遠軽町と網走地方の丸瀬布村、1915(大正4)年に釧路地方の鶴居村に入植し、翌1916(大正5)年に宮城県団体の12人が宗谷地方・中頓別と長万部町に入植したと記録されています。

 屯田兵制度はロシアの南下政策に対する国防と北海道の開拓、更に廃藩置県により碌を失った士族の授産を目的に設けられ、1875(明治8)年の琴似屯田兵村に始まり25年間で道内37カ所に中隊が配置されました。

 宮城県からは377人が屯田兵として北海道に来ており、家族を含めると約1000人に上ります。とくに屯田制度が発足した当初の琴似と山鼻の屯田兵村には、それぞれ100人の宮城県出身者が含まれており、両兵村のほぼ半数を占め、中心的役割を担いました。彼らの活躍がその後の屯田兵制度拡大の基礎を築いたと言えるでしょう。現在札幌市西区にある琴似屯田兵屋跡には「今大きく発展した札幌の濫觴(らんしょう:起源)を後の世まで長く伝えたい」との句が掲げられております。

 ほかの兵村では、東永山(上川管内)の47人を始め、標津18人、剣淵32人、南太田10人、野付牛20人、湧別16人、高志内5人、発寒13人、江別1人、美唄5人、茶志内5人、北江部乙1人が配置されています。

 このように、宮城県民は士族、屯田兵、農業団体のそれぞれで北海道開拓の礎となっていました。