社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (4) ― 伊予国(愛媛県)の北海道開拓

 今回は、温暖な愛媛県から極寒の北海道に移住した愛媛県人について報告します。愛媛県は瀬戸内海に面し、山の幸・海の幸が豊かな土地でとくに柑橘類は日本でも最大の産地です。江戸時代は「伊予国」と呼ばれ、松山藩・今治藩・大洲藩など伊予八藩からなっていましたが、明治6年に愛媛県となり明治21年には香川県を分離し現在に至っています。

 北海道へは1882(明治15)年から1935(昭和10)年の間に愛媛県から9239戸・約4万人が北海道に移住しています。温暖な地域から、何故このように多くの人たちが移住してきたのでしょうか。記録では、半数以上が東予(東伊予)の宇摩郡(現在の新居浜市・四国中央市)からの移住者だといいます。

 宇摩郡は山脈が海に迫って用水が不足して干害に苦しむことが多く、逆に台風で田畑が水害に遭うこともあり、また地租改正で税金が重くなり、自作農の没落で貧農が生じた面もあると思われます。また日露戦争で大活躍した秋山好古・真之兄弟、さらに箱館の五稜郭を設計した稀代の英才・武田斐三郎を輩出するなど、大志を抱く風土があったのではないでしょうか。

 明治6年、黒田清隆は「屯田兵制度」創設を建議し、翌年「屯田兵例則」が制定されます。1875(明治8)年の札幌琴似兵村に始まり、当初は東北地方の士族が屯田兵に参加しましたが、1885(明治18)年に「屯田兵条例」が制定され、愛媛県からも多くの人たちが参加しました。

 屯田兵制度は1899(明治32)年まで実施され、その間37の兵村が建設。7337戸・3万9911人が入植しています。この中で、愛媛県からの屯田兵とその家族は298戸・1703人を数えます。都府県別で愛媛県は石川県、香川県、福岡県に次いで多くの屯田兵制度による移住者を出しています。

 最初の応募者は、筒井孝次郎以下43戸の士族で、1887(明治20)年に室蘭兵村(輪西)へ入村。その後、平民も参加できるようになり、1889(明治22)年からの2年でで107戸が旭川屯田兵村および美唄兵村・茶志内兵村に入村しています。

 松山藩の家老格であった津田泰政は屯田兵に入隊し、日露戦争にも従軍。除隊後は東旭川村長、富良野町長を務めた人物です。

 彼はその回顧録で「愛媛県92戸を含めた397戸3334人は、大分から三津浜を経由して小樽へ。石炭運搬貨車で空知太(滝川)に行き、目的地である旭川屯田兵村まで翌日徒歩で出発した。『広漠とした林野を貫く人家もない植民道路、幼児は抱えられまた背負われ、杖を頼りに歩く老婆、年頃の娘は痛い足を引きずり、藪蚊に悩み、草履の紐ズレに無く子供、その子等いたわる老人』、16里(64キロ)の道を歩き、ようやく忠別太(旭川)に着いた。小樽を出発してから3日かかった」と記しています。

 旭川屯田兵村は昼なお暗い大森林の中、熊笹に覆われたマッチ箱のような兵屋。「懐かしい故郷を見捨て、あこがれの地に到着してみればこの有様」と、路傍にへたりこんだ老婆もいた」とのことです。屯田兵村の土地は荒れており開墾作業は困難を極めましたが、馬鈴薯は土地に恵まれ、また亜麻・大麻も栽培。その後稲作に取り組み、村を上げて灌漑溝を掘り水田化が進んでいきました。現在の上川の豊かな米作地帯の基礎がつくられたのです。

 同じく東旭川村長になった井原彦太郎は、宇摩郡で僅かな畑地で困窮な日々を送っていましたが、17歳で屯田兵に応募し旭川兵村に入居します。父とともに開拓に精励し、開墾地を次々に拡大して1907(明治40)年には耕地15町歩、リンゴ栽培、乳牛飼育や養鶏、運搬と事業を拡大し、道庁からも顕彰されます。

 屯田兵としての移住に続き、一般人の北海道入植も宇摩郡の住民を中心に進められ、1895(明治28)年には「宇摩団体」が雨竜郡多度志村(元・深川町)に入植。その後この地に「宇摩神社」を創設し、開拓記念碑も建立されています。

「宇摩団体」移住の翌年には「東伊予団体」35戸175人が北龍村(深川市沼田町)に入植。「東伊予団体」は雨竜川をはさんで「宇摩団体」と向かい合っており、互いに交流を深め協力し合って開拓に勤しみました。

「東伊予団体」は「伊勢講(無尽)」を組織し、お金を積み立て、その資金で農耕馬や西洋式器械を購入するとともに、交代で郷里に墓参することに用いました。郷里で北海道が有望であることを話し、その結果、移住者は1906(明治39)年には69戸約500人を数えるまでになりました。

 また札幌平岸を開拓した一人が重延久太郎です。重延は妻子とともに渡航し、豊平村平岸(札幌市)に丸太小屋を造り、妻とともに開墾に従事します。蔬菜(そさい)を栽培し、妻がそれを札幌のまちで売るという生活でした。この時、札幌の町でトウキビを焼いて売ったのが札幌名物「焼トウキビ」の始まりとも言われています。重延は2年間で2万坪もの土地を開墾し、その収益で豊平から平岸に至る約3.5キロの簡易道路を開削し、移住民に感謝されております。

 旧大洲藩藩主・加藤泰秋は、虻田郡虻田村洞爺湖湖畔に約60万坪の土地の貸し下げを得て開墾に着手します。「加藤農場」と言われ、小作人の多くは愛媛県人でした。さらに加藤は真狩村ルスツ(ルスッツ)にも57万坪を購入し、牧畜と農作に取り組みました。

 このほか、愛媛県からは常呂郡武華村上ポンムカ原野(現・留辺蘂町)、勇払郡占冠村、上川郡鷹栖村に入植しています。北海道の各地(僻地)に愛媛県人の足跡が残っています。