社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (1) ― 土佐人脈の北海道開拓 前編

本シリーズで最初に取り上げますのは、高知県です。

高知県、旧国名で土佐というと、まず思い浮かぶのは坂本龍馬でしょうか。坂本は蝦夷地開拓に熱い思いを持ち、1963(文久3)年に部下3人を箱館に派遣、調査を命じております。翌1864(慶応元)年には、同志200人を蝦夷地に移住させる計画も立てていたそうです。

樺太開拓に心血を注ぎ、のちに開拓使判官にもなった岡本監輔(けんすけ)は坂本に会って助力を求めましたが、その際「一区切りついたらわしも一肌脱がせてもらいたい」と、坂本も並々ならぬ蝦夷地開拓の思いを岡本に伝えています。

同年、海援隊「太極丸」で蝦夷地に行き開拓を計画するも、京都市場河原「近江屋」で暗殺。その夢が叶うことはありませんでした。しかし、坂本の宿望は明治2年、時代に先駆けた形で高知藩の北海道分領支配に繋がり、坂本の旧友で三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は箱館に「土佐商会」を設立。山内容堂は、ペリー来航3年後の1857年に部下2人を箱館へ派遣しています。

これらの動きが高知県民の目を北海道に向ける契機になったのでしょうか、蝦夷地が北海道と命名された1869年、土佐藩は3人の分領地調査員を派遣し、勇払郡・千歳郡を支配地とすることを決定しました。翌年には25戸・93人が入植。馬鈴薯・麦・豆類の開墾をおこなうかたわら、銃・弾薬を装備し、北方警備を担っていました。屯田兵の先駆けと言えるかもしれません。

土佐というと、明治維新の元勲であり自由民権運動の主導者、板垣退助が思い浮かびます。板垣は「征韓論」を掲げるも敗れて西郷隆盛とともに下野。愛国党を結成し自由民権運動に身を投じます。この運動の中核地が高知県でした。

板垣を慕い、自由民権運動に狂騒した後、北海道に開拓の地を求めたのが土佐出身の徳弘正輝です。徳弘は1882(明治15)年、湧別原野(紋別郡)に初めて開拓の鍬を下ろしました(何らかの理由で殺人を犯し、逃亡していたのではないかとの説もあります)。

徳弘は単身で開墾作業にあたり、入植のその年に根室「全道農産物共進会(品評会)」の馬鈴薯部門で入賞を果たしています。

1887(明治20)年、中湧別のナオザネに9万坪の土地を得て移住。小作人7戸、牛25頭、馬5頭で牧畜の経営に当たりました。酷寒地のため苦労は絶えなかったでしょうが、牧場経営は順調に進み、プラウを導入して畑作を拡充。リンゴ栽培に取り組み、この分野での先駆者と言われるようにもなりました。
 
ある時、徳弘は猟に出かけた際に雪崩で生き埋めとなりましたが、アイヌのメノコ(女の子)「ホウ」に介護されました。「ホウ」は才色兼備の女性だったと言われており、見初めた徳弘は同年に「ホウ」と結婚。11人もの子どもを授かります。

徳弘が幸せな生活の最中にあった1897(明治30)年、厚岸の「太田屯田兵村」が徳弘牧場の隣に進出。すると牛が毒殺されるなど大打撃を被った、といった記録が残っています。

湧別の丘にある共同墓地で徳弘は「ホウ」と並んで眠っていたのですが、1984年に建てられた立派な墓には「ホウ」の名前を見ることができません。

樺戸郡浦臼町に、明治中期に建てられた「聖園教会」が今も昔の姿を留めています。自由民権運動家で「クリスチャン代議士」と呼ばれた武市安哉は1881(明治14)年、板垣が「自由党」を創設すると武市は直ちに入党、1884(明治17)年にはキリスト教に入信します。さらに1893(明治26)年には議員を辞職し、樺戸村に「聖園農場」を創設しました。

樺戸(月形)というと集治監(監獄)が思い浮かびますが、なぜ武市は樺戸へ入植したのでしょうか。武市は入植にあたり、高知県知事時代に知己を得ていた第4代北海道庁長官・北垣国道(くにみち)に理想の開拓地を相談。北垣は、大井上輝前(おおいのうえ・てるちか)樺戸集治監典獄(館長)を紹介します。大井上は武市と同じキリスト教信者で、武市の行動に賛同し、樺戸近くの浦臼で180万坪(後に380万坪)の土地を武市に払い下げました。これが聖園農場となります。

1893(明治26)年、高知県から3度にわたり200戸が浦臼に入植しました。この時、武市は46歳。その補佐で後の北見・北光社の中心となった前田駒次が36歳。ただし武市は、第3次移民募集の帰路、青函連絡船の船上で急死してその後の聖園農場の開拓を指揮することはできませんでした。

武市の思いを繋いだ聖園教会は、移住者の信仰の柱として受け継がれ、また学童の教育の場として現在の浦臼小学校の基盤に。聖園農場は武市の娘婿・土居勝郎に引き継がれ、土居農場と名を変えました。200戸の移住者は懸命な開拓をおこないましたが、1909(明治42)年、資金の枯渇によって土地を北海道拓殖銀行に譲渡することになります。

その後、聖園農場の開拓者たちは、北米、南米、道東(北見・網走・遠軽)、道央(旭川・美瑛)など、道内だけでなく国外を含めた新天地へ雄飛していったといいます。

坂本龍馬の壮大な北海道開拓のグランドデザイン、自由民権運動による個々人を基盤とした自由闊達な共同開拓、キリスト教思想に基づいた博愛の精神。これらが現在の北海道を築く上での土台になったのではないでしょうか。

次回、高知・土佐の後編は、北見・訓子府を開発した北光社の前田駒次と坂本直寛、および初代北海道庁長官岩村通俊らについて紹介します。