【さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー】第14回・第2のススキノと呼ばれた琴似本通界わい(上)

 月刊財界さっぽろ2020年12月号より、新連載「さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー」が始まりました。

 筆者は札幌市の出版社「亜璃西社」社長でエッセイストの和田由美さんです。和田さんはこれまで「和田由美の札幌この味が好きッ!」といったグルメガイドブックや「さっぽろ狸小路グラフィティー」「ほっかいどう映画館グラフィティー」といった、新聞・雑誌等のエッセイをまとめた書籍を多数刊行されています。

 今回の連載では、札幌市内の「通り(ストリート)」や「区画」「商店街」「エリア」などの「マチナカ」(賑わいのある場所)を、毎月1カ所ピックアップ。その場所について、名前の由来や繁華街となっていく上での経緯、さらに現在に至るまでの変遷といった歴史と記憶を綴ります。

 今回は第13回「第2のススキノと呼ばれた琴似本通界わい(上)」です。

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 先だって、久しぶりに琴似本通に面した居酒屋で友人たちと飲んだ。コロナ感染による非常事態宣言が解除されてすぐだったせいか、人出も多く繁華街らしい賑いがあり、なんだか華やいだ気分になれた。

 古い話だけれど、地下鉄南北線の真駒内〜北24条間が開通したのは、「冬季オリンピック札幌大会」開催の前年にあたる1971年(昭和46)のこと。東西線はそれより5年遅れの76年、白石〜琴似間が開通した。当時、バスターミナルを有する地下鉄の終点だった北24条駅と琴似駅界わいは飲食店が増え続け、どちらも“第2のススキノ”と呼ばれるほど隆盛を誇った。

 その頃の私は、新琴似に住んでいたので北24条界わいの方が馴染み深かったが、琴似の有名な酒場に初めて案内してくれたのは、作家の故・寺久保友哉さんである。「田舎や」という名前の居酒屋で、花柳流のお師匠さんでもある小林右加子さんが、JR琴似駅前で66年に開店。深夜まで営業していたので、ススキノで散々飲んだ後に立ち寄ったが、お師匠さんは夜更けでも刺し身3点盛りや酢の物など気の利いた酒肴を出してくれた。

琴似本通で長らく営業した「田舎や」のかつての佇まい ©財界さっぽろ

 それも九谷焼や伊万里焼など、自らのコレクションと思われる華麗な器を惜しみなく使い、若輩者の私はいつも恐縮していたもの。また当時は頑なにカラオケを拒否していた私に「一曲ぐらい持ち歌があっても良い」と、寺久保さんとお師匠さんが薦めてくれた。そこで恥ずかしながら生まれて初めて唄ったのが内藤やす子の「六本木ララバイ」。

 捨て鉢な歌い方が、いつもジーンズ姿で走り回っていた当時の私に似合っていたらしく好評で、以来、長らくカラオケの持ち歌となる。ところが、清元や長唄で喉を鍛えているお師匠さんの歌は、声の良さはもとより、どんな曲を唄っても人生の年輪を感じさせるシャンソン風になっていて素晴らしかったものだ。

 あれは8年ほど前のことだったろうか。FM北海道で「さっぽろ大人グラフィティー」というラジオ番組の構成を手伝っていて、番組が終了した打ち上げの2次会で久しぶりに立ち寄った。総勢7人ほどで、飲んだり歌ったり。その後、支払いをしようとすると、お師匠さんは頑として「要らない」という。それでは困るので「また来ます」と言ってその場はご馳走になったが、次回に支払うつもりだった。しかし、その年の秋、お師匠さんは急逝された。とすれば、まるでさよならの挨拶のような夜だったとも思える。お師匠さんが唄った、金子由香利バージョン「小雨降る径」のハスキーな声がとても懐かしい。

 亡くなったと言えば、98年(平成10)に開局した琴似エリアのFM局「三角山放送局」を運営する㈱らむれすの社長だった木原くみこさんのことも、あれこれ思い出される。JR琴似駅の北側に高層マンション「ザ・サッポロタワー琴似」がそびえるが、その手前に春は新緑の葉に囲まれ、秋は紅葉の美しいレンガ造りの建物がある。「レンガの館」と呼ばれ、一時は解体の危機を迎えたらしいが、今はマンション住民の集会所として保存され、2006年からは三角山放送局が委託を受けて管理。中には広いホールがあり、奥は三角山放送局のスタジオで、ガラス越しに本番中のパーソナリティーの姿も見える。

 そもそも木原さんは、河村通夫さんや田中義剛さんなど人気パーソナリティーを何人も育てたSTVラジオのディレクターで、日本民間放送連盟賞優秀賞やギャラクシー優秀賞など数々の栄誉に輝いた実績を持つ。そんな彼女から18年に出版を依頼された開局20周年記念誌『三角山放送局 読むラジオ いっしょに、ねっ! 開局20年のキセキ』の編集会議で、この建物に出不精の私が何度通ったことだろう。

「声を失ってもラジオを続けたい」と頑張るALS(筋萎縮性側索硬化症)のパーソナリティー米沢和也さんの生放送も見学させてもらったし、同年9月に起きた「胆振東部地震」の際は、スタジオに張り付いて地域情報を送り続けたことも教えてもらった。木原さんは不治の病に侵されていたとは思えないほどの気丈夫さで、実に頼り甲斐があった。

 そんな彼女の訃報が届いたのは、19年(平成31年)の正月3日のこと。前年11月には、入院前にカメラマンとインタビュアーを手配して行ったグラビア撮影に同行して会えたが、入院後は容態が急変して再会は叶わなかった。享年67。西区の博善会場で行われた通夜には、収容人数300人のところ500人の参列者が集まり、会場は立ったままの人で溢れ返った―。

 それまで毎年、彼女を含めた働く女性の友人たち(4人合わせて優に250歳は超える)と、天神山公園で花見をしていた。そのメンバーから彼女が抜けた空白は大きく、ぽっかり穴が開いたよう。琴似エリアで三角山放送局を誕生させ、慈しみながら育てた木原さん。貴女のことを私は忘れない。