【特別掲載】追悼・石屋製菓名誉会長の石水勲さん 情熱を燃やし続けたコンサドーレ創設秘話

 北海道土産の大定番「白い恋人」でおなじみ、石屋製菓名誉会長の石水勲さんが、9月26日午前4時30分、札幌市中央区の病院で死去した。近年は病気のため療養中だった。

 石水さんは札幌工業高校在学中は野球、東洋大学経済学部進学後はボクシングに熱中するなど学生時代はスポーツに親しみ、卒業後は家業の石屋製菓に入社。父のもとで経営を学び、工場のラインに自ら立つ一方、職業訓練校にも通うなど菓子づくりに傾注。その中の1976年に生まれたのが「白い恋人」だった。68年フランス・グルノーブル冬季五輪の記録映画「白い恋人たち」をモチーフにした品名、斬新なパッケージデザインで爆発的なヒットとなり今に至っている。

 勢いのある若手経営者として、市内の経済界でも頭角を表していた93年、その後の生涯を通じて情熱を傾けることになる出合いがあった。サッカー・Jリーグの開幕と札幌へのチーム誘致活動、そしてコンサドーレ札幌の誕生だ。

JFL参加初年度、キックオフ前に円陣を組むコンサの選手たち ©財界さっぽろ

 月刊財界さっぽろ2016年3月号では、当時創設20周年を迎えていたコンサの記念特集を掲載。チーム創設前後の出来事や誘致活動の裏にあった秘話を紹介した。

 以下、石水さんへの追悼として、その記事を再編集して掲載する。一部、掲載時のままの表現になっている部分があることをご了承いただきたい。

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「札幌の今後を考えたら絶対必要」

 Jリーグ創設当時の1993年、全国に波及したブームは、各地の自治体やサッカー関係者に「おらがまちにもチームを」という機運をもたらした。

 北海道も例外ではなく、道サッカー協会は93年2月にチーム誘致の特別委員会を設置。札幌青年会議所(JC)も94年に署名活動をおこない31万筆を集めるなど、その動きが広がった。

 Jリーグのチームを設立するための方法は2つ。地元チームを強化して、地域リーグから順に昇格していく「自生型」と、JFLなど上位カテゴリー所属のチームを招く「誘致型」だ。

 93年7月、日本航空(JAL)札幌支店勤務の浜田翼さんは、友人で札幌の出版社・イエローページ社長の野村満さんとともに呼び集めた、11人の仲間と会合を持った。お題はもちろん「北海道にJリーグチームをつくるにはどうするか」。東芝サッカー部誘致によるコンサドーレ札幌誕生の影で〝実働部隊〟として奔走したのは、この11人だった。

 浜田さんらはまず、道内サッカー界一の名門・北海道電力サッカー部を母体にしようと北電本社を訪ねた。

「最短でJリーグを目指すなら当然北電さん、となる。真っ先に話をしたが『公共事業を生業とする会社として、サッカー部のプロ化は考えられない』と断られた」(浜田さん)

 浜田さんたちが次に話をしたのが、道社会人リーグ所属のクラブチーム「札幌蹴球団」。94年シーズンに強化を図ったが、上位リーグであるJFLへの昇格はできなかった。

 他方、94年秋ごろから札幌JCをはじめ札幌市や道、経済界、道サッカー協会などは運動の共同推進組織設立を模索。しかし、各界の思惑ばかりが交錯し、リーダーシップを発揮して取りまとめる者もいなかった。

 だが94年末に転機がやってくる。浜田さんらに対し、Jリーグ関係者が東芝サッカー部監督の高橋武夫さんを紹介したのだ。

 東芝との交渉に先立つ95年1月末、浜田さんらは市民組織「札幌SJクラブ」を設立。行政や市民、企業などを設立運動に取り込み、東芝へ地元の盛り上がりを示そうという思惑があった。

 このSJクラブの会長にと浜田さんらが白羽の矢を立てたのが、石屋製菓社長の石水勲さんだった。

 前出の野村さんや浜田さんが石水さんのもとを訪れると、石水さんは当初、困惑したのだという。

「俺、ボクシングなんだよな」

 東洋大時代はファイティング原田に傾倒してボクシング部に所属。中学・高校時代は野球少年でもあり、従前からプロ野球チームの札幌誘致を望んでもいたという。それでも2人が石水さんに頼み込むと「よし、わかった」と協力を快諾した。

「『地元のオーナー企業のほうが、出資を検討してもらいやすいのでは』と考え、野村さんが数社提案してくれた。その中で真っ先に頼みに行ったのが石水さん。『札幌というまち、市民の今後を考えると、サッカーチームは絶対に必要だから』と口説いたんだ」(浜田さん)

 余談だが、その際こんなエピソードが残っている。

「石水さんの母・キヨノさんは会社の金庫番。とにかくお金の使い方に厳しく、そこは石水さんとは正反対だった。石水さんは会長を引き受けると決めた際、意を決してキヨノさんに『お金がいるんだ』と、出資金の捻出を頼み込んだ。キヨノさんは『いくらいるんだ』って。石水さんはたしか8ケタ(数千万円)程度と言ったんだけど、キヨノさんはひとケタ多い額を用意してくれた。コンサは『使うべきところ』だと考えてくれたんでしょうね」(当時を知る関係者)

石水さん(左)と固く握手を交わす現コンサ社長の野々村芳和さん(2013年1月撮影) ©財界さっぽろ

手伝わなくていいから邪魔はするな

 95年2月ごろから本格的に始まった交渉は、当然難航した。東芝はこの時点で仙台をはじめ7都市からの誘致の話を断っており「いまさら移転はできない」という見方もあった。だが6月には監督の高橋さんが厚別を初視察。7月には移転の受け皿をつくるための準備会社を設立するなど、課題をクリアしていった。

 東芝から内諾の感触を得たのは11月。翌12月には移転が正式に決まった。

 ところで、財界さっぽろ本誌96年1月号には、当時の内情を暴露した記事が掲載されている。

「北電会長で道経済連合会の戸田一夫会長や道サッカー協会の樫原泰明会長が『どうせ東芝は来ない』と、いい加減な対応をした」

「移転が決まると、戸田会長が東芝の関係者を呼んで『受け皿ができていないから来てもらっても責任は持てない』と話した」などの記述がある。なぜそのようなことになったのか。

 当時を知る、複数の関係者の話を総合するとこうだ。

「95年の正月に道内テレビ局で『新春激論生トーク・北海道にJリーグを!』という深夜番組が放送された。当時は推進組織の設立が進まない中で『北海道はやる気があるのか』などがテーマだった。その番組の終盤、パネリストとして出席したSJクラブのあるメンバーが、道サッカー協会幹部の煮え切らない発言に業を煮やし『もう何も手伝ってくれなくていいから、邪魔だけはしてくれるな』と言い放った。あの一言で、水面下でしか知られていなかった、同協会の消極的な姿勢が道民に露わになった」

「協会幹部は赤っ恥をかかされ、同協会会長の樫原泰明さんや、北電から来ていた協会幹部らが激怒した。あれ以来、表に出ない部分で協会と北電は非協力的になった。樫原さんは97年3月に亡くなったが、協会や北電に『コンサドーレには協力するな』という〝遺言〟を残したという噂もまことしやかに伝わった」

 遺言は話半分にしても、財界の重鎮らはチーム経営の先行きを懸念して発言したのだろう。それでも、推進派が冷や水を浴びせられたことには違いない。

 だが、とにもかくにも誘致は決まった。96年4月、運営会社「北海道フットボールクラブ」が設立。チーム名は公募で「コンサドーレ札幌」に決まった。

「濁音と伸ばし音があるチーム名は力強く聞こえる、というセオリーに合致していた。応募案はカタカナだったが、デザイン面を考慮し『C』で始まる綴りもその時決めた」(浜田さん)

 設立当初の資本金は約8億円。市民持ち株会が同年8月までに1億2870万円を集め、道、札幌市も計3億円を拠出。同年末に資本金は15億円まで増えた。

 一方で、JFL5位に終わり昇格を逃した初年度の決算は約8億円の赤字。広告・入場料収入の計4億6500万円に対し、人件費が6億円超となったのが響いた。その後もコンサドーレは度重なる経営危機に悩まされ、財界人の懸念は、図らずも的中した。

 浜田さんは「私は北海道が大好きで、希望を出して転勤してきた人間。道民の、札幌市民のためにと走り回ってやっとの思いでできたチームでした。いろいろ危機はあったけど、20年もの間道民に愛され続け、存続してきました。96年5月、厚別でのホーム初戦は、平日の夜なのに、ゴール裏はサポーターで埋め尽くされていて、チームを創って良かったと心から思った。その気持ちは今も変わりません」と語っている。

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 10月15日発売の月刊財界さっぽろ2021年11月号では、市経済界の風雲児として活躍した石水さんの足跡を振り返るほか、好評連載「砂川誠のコンサの深層」には、コンサ初代キャプテンを務め、9月26日に発足したチームOB会「コンサオールズ」会長の後藤義一さんが登場、創設時の秘話を語る。どうぞご期待ください。