社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (46) ―肥前(長崎)・肥後(熊本)県民の北海道開拓

 長崎県と熊本県は有明海を隔て位置しており、江戸時代以前は肥前国・肥後国として、歴史的にも重要な役割を果たしてきました。今回は明治4年、北海道日高国・浦河へともに入植した肥後(熊本)の天草、肥前(長崎)の大村の村民について、その足跡を記します。

 浦河は300年以上前から、アイヌ語で「霧深き川」を意味する「ウララペッ」を語源とし、蝦夷古地図にはウラカワとして載っていました。コンブなどの海産物が豊かで、交易の拠点として松前藩の会所も置かれておりました。

 一方、農作物に関してはほとんど手が付けられておらず、原生林の中で熊や狼が横行し、道南とはいえ気候は冷涼。米作もほぼ不可能な状態でした。このような原野に、南国に育った九州の農民がどのように移住したのでしょうか。

 明治4年2月、北海道開拓使担当官が肥後(熊本)天草、肥前(長崎)大村を訪れ、北海道移住者を募集。当時天草・大村はともに人口が増加し、農民は貧乏のどん底で打ち壊しの一揆もあり騒然とした状態でした。

 開拓使の示した移住条件は、支度料15円(現在の価値で30万円程度)、移住に関わる費用無料、移住後3年間の食料支給という好条件。新天地開拓、新政府による北方の警護の大義もあり、天草郡から21戸90余人、彼杵(そのぎ)郡大村から24戸70余人が応募、北の大地に向かいました。

 明治4年5月、長崎港を出発し11日をかけ、浦河の地に到着(北海道植民状況報文)。到着後、大村班一行は西舎(にしちゃ)に、天草班は杵(きねうす)に直ちに入植し、その日から開墾の日々が始まりました。昼なお暗い密林のなかで、熊や狼の出没に怯えながら大木を倒し、鍬を振う。南国出身の移住者たちにとって、粗末な小屋の中で経験したこともない冬の寒さはいかばかりだったでしょうか。

 移住者は子弟の教育が重要だとし、早速一行の中の知識のある者を教師として寺子屋式の教育を始めました。1877(明治10)年にはこの寺子屋が「浦河小学校」として誕生します。北海道では4番目の公立小学校(開拓使の開設した「資生館」、伊達藩片倉家臣団の設立した「善俗堂学問所」:後の白石小学校、同じく片倉家家臣三木勉による「時習館」:後の「手稲東小学校」に次ぐ)で、既に120余年の歴史を刻んでおります。「浦河小学校」は戦後「町立浦川小学校」と改められ、創立以来1万2000人を超える卒業生を排出しています。

 浦河町は「馬の町」として有名。現在、東洋一の競走馬調教センターで軽種馬の育成を行っており、名馬「シンザン」を始めとして浦川産の競走馬が中央競馬会のレースで20回もの優勝回数を誇っています。

 このような畜産振興の原点には、天草移民団で浦河に入植した本巣万太郎という人物の名が記録されています。万太郎は質素・倹約を旨とし、支給された支度料や副食費などを貯蓄し、洋式農具などを購入。馬を積極的に活用し農耕の近代化に取り組み、後に「本巣牧場」を運営することになります。浦河には1858(安政5)年、政府直轄による牧場(浦河馬牧:おさまき)が運営され、1907(明治40)年には「日高種馬牧場」が開設されましたが、そのような環境の中、万太郎は馬の活用による農耕を先駆的に進めたのです。

 1881(明治14)年からキリスト教団体「赤心社」の移民団(本ブログ:兵庫県民の北海道移住)が長崎・熊本団体と同じ浦河の西舎(にしちゃ)・杵臼に入植します。赤心社がこの地を選んだのは、キリスト教思想に理解のある天草や大村の移住者が既に移住していたこともあるのではないでしょうか。1886(明治20)年代、天草・大村の移住民とともに赤心社の面々が苦労したのは度重なる幌別川の氾濫でした。

 当時、地域の惣代だった本巣万太郎は村民の先頭に立ち、堤防工事に取り組みます。総延長8キロの堤防を4年の年月と延べ1万人の参加で完成させます。堤防の完成で、移住民は河川氾濫から解放され、また灌漑溝の築造で、現在の豊かな農・畜産物の日高地方が誕生しています。

 以上は、浦河町編纂・浦河百話の内、第八話:天草・大村移民団、第九話:浦河小学校略史、第十三話:万太郎と丘堤防を参考にしました。

 長崎県および熊本県から、屯田兵として道内各兵村に入営した方々を原口敬の記録より紹介します。資料によると熊本県からは215戸、約1200人が屯田兵として北の守りと原野の開墾に従事しています。1885(明治18)年には江別兵村と野幌兵村にそれぞれ7戸、21戸が、1887(明治20)年には新琴似兵村に41戸、篠路兵村に46戸が入営しています。いずれの兵村も札幌市近郊であり、道都の守りと札幌市民への食料供給の役割を果たしました。

 1890(明治23)年には滝川兵村に27戸、1894(明治27)年には美唄兵村(2戸)、高志内兵村(2戸)、茶志内兵村(1戸)江部乙兵村(9戸)に入営し、札幌と旭川を結ぶ上川街道沿いに展開しています。1899(明治32)年には上川地方の士別兵村(3戸)、剣淵兵村(8戸)に入営し、屯田兵本部のある旭川の警護を強化する役割を担いました。1898(明治31)年、99年にはオホーツク海地方の野付牛兵村(北見:5戸)、湧別兵村(43戸)に入り、北辺の守りの役割を強化し、長崎からは、美唄兵村(1戸)、上川地方の当麻兵村(3戸)と剣淵兵村(1戸)と、合計5戸に止まっています。