社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (43) ―筑前国・築後国(福岡県民)の北海道開拓

 福岡県は、韓国の釜山や中国の上海など近隣諸国の主要都市が近いため観光客が多く訪れ、また各国との輸出入も盛ん。人口は都道府県別で9位、県内総生産も全国8位の元気な地域です。

 明治2年、全国各藩による北海道分領地支配が施行された時、福岡藩は後志国の久遠郡(くどうぐん:現北海道檜山振興局管内)と、奥尻郡(奥尻島、現北海道奥尻郡奥尻町)を明治4年まで管轄していました。

 札幌市北区篠路に「あいの里」という地名があります。この地は1881(明治14)年に徳島県人の滝本五郎らが「興産社」を組織し、藍を栽培したと本ブログ(3)で紹介しました。あいの里の隣には石狩川をはさんで「福移」という地があります。近隣には篠路清掃工場や「札幌パークゴルフ倶楽部・福移の杜コース」があります。この地はかつて「当別太」と呼ばれ、1882(明治15)年に福岡藩士族の40戸75人が入植した所です。

 入植の2年後には子弟の教育が大事であると、福岡藩士・高崎国丸が寺子屋教育を始め、1892(明治25)年には「篠路教育所」に昇格しています。この時、高崎は福岡の「福」と、移住の「移」をとり「福移分教所」と命名したことから、以来この地は「福移」と呼ばれることになったそうです。文教所は大正に入り移転し、現在の「福移小中学校」となっています。札幌でも小・中学校が一体化しているのは珍しいとのことです。

 さて、移住団を率いたのは木野束(つがね)。北の地に新しいユートピアを築くべく、「事業は共有」「運営は多数決」「収入は平等」の方針の下で「品行方正、節操堅固にして身体健康な者」を選び北海道に渡りました。時の明治政府も移住団に期待すること大で、現在の金額にして5億円を無利子、5年間据え置きという格別な条件で融資。しかし、現地に到着した移住団に悪夢が訪れます。なんと会計係が海産物商品取引に融資額をすべて投入、消滅してしまったのです。

 移住団一行は瞬く間に無一文となり、郷里から持参した刀や晴れ着を売って糊口をしのぐ生活を過ごすことに。ついには誇り高い黒田武士が路上で憐れみを請うに至って、木野は危機を乗り越えるべく、挫折しそうになる家を一軒一軒訪ね士気を高める一方「北海道移住開拓社」を組織するなど徐々に開墾を進め、1892(明治25)年に63戸、1898(明治31)年には140戸・600人まで人口が増えていきます。

 先ほど述べた「福移小中学校」の近くには天照大神を祀る「福移神社」があり、3つの石碑が置かれています。その1つが1981(昭和56)年9月に建てられた「福移開拓百年碑」で、堂垣内直弘知事(当時)の碑文を読むことができます。

 そこには「北辺ニ新天地ヲ求メ旧黒田藩黒田家士族 明治十五年集団移住、開拓以来茲二風雪百年福移発展ノ基礎ヲ築ク、碑ヲ建立シコレヲ後世ニ伝タウ」と記されています(広報さっぽろ北区版昭和59年9月号参照)。最後の黒田武士として札幌・北海道の発展に貢献されました。

 札幌市営地下鉄「麻布駅」から徒歩15分の場所に新琴似神社があり、その境内に新琴似屯田兵中隊本部の建物が復元されており、札幌市指定・有形文化財になっています。1875(明治8)年の琴似・山鼻兵村に遅れること10年あまり、札幌地区3番目の兵村として1887(明治20)年に新琴似兵村が開村。新琴似兵村は全220戸の屯田兵家族の内、九州諸藩の藩士が85%を占めており、福岡からは55戸が入営しています。

 新琴似は泥炭層が多く湿地帯で、さらに入営した年は天候不良。わずかにソバが実ると、屯田家族たちは涙を流して喜んだそうです。その後農作物の種類も増え、養蚕や麻の栽培、さらに米作にも取り組みましたが、相次ぐ凶作と洪水被害で苦労の絶えない開拓生活でした。そのような中でも子弟の教育を最優先課題として取り組み、入植した翌年には私立新琴似小学校を開設、現在の札幌市立新琴似小学校に発展しています。

 新琴似兵村開村の2年後、近くに篠路兵村が出来、福岡からは12戸が入営しています。新琴似兵村・篠路兵村を含め、福岡県からは356戸が屯田兵として北海道に入植しており、都府県別では石川県に次ぐ数となっています。

 他の屯田兵村としては、1888(明治21)年に根室地方の西和田兵村に78戸、1889(明治22)年に室蘭の輪西兵村に59戸、1890(明治23)年に空知地方の北滝川兵村と南滝川兵村にそれぞれ22戸と17戸が入営。士族屯田の時代ですので、福岡藩藩士が刀を鍬に持ち替え北辺の守りと北海道開拓に苦労を重ねたのです。

 同年年に明治政府は「屯田兵条例」を改訂。屯田兵になる条件としての士族は廃止され、いわゆる「平民屯田」の時代に移行。福岡からは農民を中心に北海道各地の屯田兵村に移住しました。1893(明治26)年、上川地方の西当麻兵村に1戸、翌年には空知地方の美唄兵村に6戸、高志内兵村に7戸、茶志内兵村に6戸、北得江部乙兵村に20戸、南江部乙兵村に42戸が移住しています。1897(明治30)年から翌明治31年にかけては、道東地方への移住が目立ちます。北見地方の上野付牛(のつけうし)兵村に6戸、中野付牛兵村に8戸、下野付牛兵村に5戸が、そしてオホーツク地方の北湧別兵村に2戸、南湧別兵村1戸が入営し、北方(ロシア)からの侵攻の備えに当たりました。

 1882(明治15)年から1935(昭和10)年にかけ、福岡県からの北海道移住者総数は5017戸に上っており、温暖な九州地区からの北海道移住で最も多い戸数です。