社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (39) ―出雲・石見・隠岐(鳥取県)の北海道開拓

 島根県は、東隣の鳥取県に次いで人口の少ない県。ただ、古代日本では最も文化の発達した地域の一つで、古墳時代や弥生時代の古墳からは「卑弥呼の鏡」や鉄器などが発掘されています。

「神話の国」島根県から北海道に移住された家族は1882(明治15)年から1935(昭和10)年にかけ3150戸。都府県別では40位となっています。41位以降は九州各県ですので、よくぞ遠方の島根県から3000戸を超える人たちが移住して来られたかと、ある種の感銘を受けます。

 今回は島根県からの移住者で、北海道の基礎をつくられた4人を紹介します。札幌農学校に学び「近代農業の先駆け」といわれる鈴木重慶、「大通花壇を造り五番館を創設した」小川次郎、兄弟でともに「札幌農学校」で学び、第1回の市会議員選挙で初代札幌市長に選ばれた兄の高岡直吉、名著「札幌沿革史」を著し、第三代北海道帝国大学総長を務めた弟の高岡熊雄の4氏です。

 島根県の県庁所在地・松江市の東端に美保関町があり、ここに美保神社が置かれています。出雲大社(いずもおおやしろ)と並び称される「えびす様の総本山」が美保神社です。鈴木重慶は美保神社主典(神職)の息子として育ちます。

 1895(明治28)年、島根県の3人の名義で「山陰移住会社農場(倶知安町)」の隣接地540万坪の貸付を受け、美保神社の神職や氏子が「出雲団体」を設立。鈴木重慶はこの農場の管理人となり、小作人とともに木を刈り、小屋掛けなど移住生活の基盤を固めます。

 鈴木は開墾作業の中で農業技術及び学問が必要と、1900(明治33)年札幌農学校に入学。卒業すると、さらに先進的農業を学ぶべく渡米。カンザス農科大学で学ぶなど近代農業を体得しました。1907(明治40)年に帰国後、東北帝国大学(後の北海道帝国大学)で3年間務めた後、倶知安の農場に戻り、アメリカ式混合農業を導入。115町歩の土地を8区に分け、豆・麦・トウモロコシなど6種を交互に6年輪作で耕作。さらに牛舎や鶏舎を設け、酪農にも取り組みました。

 また蒸気式原動機による脱穀、種蒔き、草刈りと、農機具をふんだんに使用。乗用型トラクターは倶知安地方で初めてで、地元の農家は驚き、多くの人が見学に来たそうです。1924(大正13)年には京極町にも農場を展開し、昭和初期まで当時は珍しい機械化農業を経営。「近代農業の先駆け」と称されています。

 松江藩士の次男として1870(明治3)年、今の松江市殿町で生まれたのが「牧草経営の先駆者」と言われる小川次郎。小川は開拓途上の北海道に魅せられ、明治21年札幌農学校予科に入学。卒業後、先輩の経営する「東京興農園」の支店を任されることになります。

「東京興農園」は輸入種苗の販売会社で、小川は北海道初の種苗通信販売を開始するほか、人造肥料や農具も扱い、さらに農民に経営指導をするなど業績を拡大していきます。1906(明治39)年には札幌市北4条西3丁目に、レンガ造り二階建ての新たな支店「五番館興農館」を開設。ここでは洋品雑貨も取り扱ったのですが、資金繰りが厳しく三井物産支店長の小田良治に譲渡せざるを得ませんでした。

 1907(明治40)年5月、北の地にもようやく花々が咲くころ、防火線として造られた札幌大通に花壇ができ、市民を喜ばせました。この花壇は小川が私財を投じ、自分で馬耕して造ったものです。春から秋にかけて様々な花が咲き乱れ、今も札幌市民の憩いの場となっています。小川は1956(昭和31)年、余市町にて87歳の生涯を閉じました。

 高岡直吉(ただよし)は1860(万延元)年、石州(島根県)津和野町に生まれ、10歳違いの弟が高岡熊雄。早くから秀才兄弟として郷里の人々に期待されていました。

 兄の直吉は1878(明治11)年に官費生として札幌農学校に入学。首席で卒業し山口県庁に勤めますがその後来道して増毛郡長に。この機に弟の熊雄も札幌農学校に入学。熊雄は学業を終えると母校の教授となり、わが国の農政学の権威となりました。

 兄の直吉はその後根室郡長、宮崎県知事を経て1911(明治44)年、島根県知事となって故郷に錦を飾ります。1922(大正11)年、当時の札幌は人口が12万人に増加。市制が執行され、力量のある市長が望まれていました。札幌市の近代化を推し進め、道都として躍進すべく、市会は県知事を歴任した直吉を市長に指名。翌年、直吉は札幌市長に就任しました。

 直吉は都市の発展と電車の公益性から、市電の実現を目指し、当時私企業運営であった市電を1924(大正13)年には市営に。さらに下水道管のコンクリート化など、現在の札幌市の基礎を固めました。

 一方、弟の熊雄は札幌農学校で新渡戸稲造から多大な影響を受け、名著「札幌沿革史」を1897(明治30)年に出版。これは札幌における歴史書の端緒と言われています。さらに、同年には札幌農学校助教授として「北海道農論」も出しています。その後、札幌商工会議所、札幌区会、市会議員として活動を広げると共に、法学博士・農学博士として農政学の権威を高めます。

 1933(昭和8)年、高岡熊雄はその人柄と高い教養が認められ、第三代北海道大学総長に選任されています。その後1962(昭和37)年、札幌市桑園にて91歳没。
 
 島根県からは屯田兵として82戸が北海道に入植しています。1893(明治26)年の当麻(上川地方)が14戸、翌年の江部乙(空知地方)が31戸と戸数が多いですが、その他は比較的少人数です。

 1888(明治21)年に新琴似(札幌)1戸、1893(明治26)年に美唄(空知)4戸、高志内(空知)4戸、明治27年に茶志内(空知)2戸、1895(明治28)年に納内(空知)3戸、1896(明治29)年に秩父別(空知)5戸、1898(明治31)年一已町(空知)8戸、野付牛(北見)年6戸、湧別(オホーツク)1戸、1899(明治32)年に剣淵(上川)3戸が、それぞれの兵村に入営しています。