社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (38) ―因幡・伯耆国(鳥取県)の北海道開拓

 1871年に制定された廃藩置県で、因幡国と伯耆国、及び播磨国の一部が鳥取県に統合。その後1876(明治9)年には鳥取県が島根県に併合され、その後鳥取県民の反対運動で1881(明治14)年、因幡国と伯耆国が分離独立して鳥取県となっています(鳥取県再置)。

「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の因幡国と「邪馬台国時代の大規模集落があった」伯耆国。神話の世界がこの地域です。再置後の旧鳥取藩は生産性の低い農業が主産業。士族は職もなく、困窮は甚だしく、三食を欠く士族も続出。士族救済のため北海道移住策が検討され、時の県令・山田信道は明治政府に2000戸の移住計画を申請し、1000戸の許可を受けます。

 1884(明治17)年、鳥取士族移住者第一陣、41戸207人が荒涼たる湿原のベツトマイ原野(釧路)に集団移住。ここを「鳥取村」と名付けます。

 翌1885(明治18)年、第二陣として64戸306人が同地に入植し、総戸数105戸513人の集落を形成。しかし、移住民の住居はバラック造りで、寒風が容赦なく室内に吹き込み、また一家には畳部屋は6畳のみで、体を寄せ合って生活せざるを得ませんでした。

 移住団を苦しめたのが近くを流れる阿寒川の氾濫。第二陣が入植した年の秋、洪水で収穫期を迎えた農作物は全滅。その後も移住者は毎年の様に水との闘いに見舞われました。北海道庁は1917(大正6)年、阿寒川氾濫の対策工事を完成させ、また1931(昭和6)年には新釧路川を完成させて水害の被害は大きく減少しました。それまで30年以上にわたり、移住民は河川氾濫との戦いに苦しめられてきたということです。

 鳥取村はその後も発展し鳥取町になりましたが、1949(昭和24)年、釧路市との対等合併でその名は消え、現在は鳥取地区として士族移住の歴史を残しています。

 鳥取地区はJR根室線新富士駅(釧路駅の隣)近く。鳥取大通、鳥取西通りが交差し、鳥取・鳥取西小学校、鳥取・鳥取西中学校、鳥取公園、鳥取神社など、多くの鳥取の名のついた施設があり、まるで鳥取県にいるかの様相を呈しています。

 すべての移住者の心を一つにし、ともに故郷を偲ぶため、移住者たちは「村社を建設する件」を村会に諮問。1891(明治24)年に出雲大社に請願し聞き届けられ、鳥取神社が建立。移住民の故郷因幡には「因幡の白兎」伝説があり、移住者たちは心優しい「大国主命」を祭神として祀っています。

 十勝地方に日本最大面積を持つ町・足寄町があります。足寄町最奥部、旧足寄駅から50キロ、陸別町との境界にあるカネラン峠を越えたところに「鳥取」という地区があります。1919(明治43)年、この地に入植が開始されました。当時は道路も整備されておらず、また冷害・霜害に悩まされるなど大変な苦労があったそうです。大正元年には子弟のために鳥取特別教授所が設けられ、後の鳥取小学校に。しかしその後、上足寄小学校の分校となり1968(昭和43)年に廃校となっています。

 鳥取県から北海道への農業移住としては、池田町、倶知安町、剣淵町にその足跡が記録されています。
鳥取藩主池田家が「北海道国有未開地処分法」による払下げを受け、福井県及び鳥取県の移住者が十勝地方池田に農場を開墾。鳥取県からは明治32年までに57戸が小作人として入植。艱難辛苦の末、50年後にようやく農地は解放され、移住民(子孫)は自作農に。現在の農業王国十勝の礎になっています。 

 1895(明治28)年、石見国(現:島根県太田市)の有志が山陰移住会社を設立し、鳥取県からは明治29年から31年にかけて約60戸が倶知安町に移住しています。1905(明治38)年には鳥取県鹿野村(現:鹿野町)から25戸が剣淵(上川地方)に入植。1912(明治45)年に「鳥取団体相救会」を結成し、相互の結束を固めています。大正中頃からは酪農を主体に営農しています。

 明治中期、北海道の日本海側はニシン漁でにぎわっており、鳥取県の漁村からも増毛、留萌、稚内、利尻、更に樺太に多くの漁民が移住。ニシンが不漁の時期を迎えると、タラバガニの缶詰工場を創設する人も出て来たそうです。明治末までに稚内・宗谷地方には60戸を超える移住者が住んでいました。

 鳥取県から屯田兵として北海道に移住した総戸数は369戸(堀口敬調査)で、宮城・石川・山形各県と並びトップクラスです。

 1885(明治18)年の石狩地方・江別兵村へ35戸(含・篠津)が移住したのを端緒として、翌年には江別の隣町・野幌兵屋に64戸が入植。江別・野幌ともに現在は札幌市のベットタウンとして発展しています。

 1887(明治20)年には海上警備の要衝・室蘭の輪西兵屋に51戸が入植。当兵屋の地は泥炭の湿地帯で、さらに海岸に近く塩害で農作物は育たず、移住民は苦しめられました。

 1886(明治19)年に東和田(根室)、2年後には西和田(根室)にそれぞれ3戸、79戸が入営。和田兵村は千島列島からの防衛が目的ですが、過酷な自然環境に苦しめられる日々が続きました。

 上川道路沿いの空知地方に、1894(明治27)年美唄(5戸)、高志内(4戸)、茶志内(5戸)、北江部乙(34戸)、南江部乙(22戸)に夫々入営。翌年には同じく空知地方の西秩父別に3戸、南一已に2戸が入営。上川地方の兵村では1893(明治26)年に東当麻(10戸)、西当麻(19戸)に入営しています。

 また平民屯田になった後、同じく上川地方の北剣淵(2戸)、南剣淵(2戸)に入植したことが記録されています。北見・オホーツク地方では、1898(明治31)年に、野付牛(14戸)、湧別(14戸)に入植し、極寒の中厳しい務めを果たしておりました。