社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (35・5) ―大和国(奈良県)の北海道開拓

 現在の奈良県は、紀元3世紀から4世紀の頃から栄え、一時期日本全国の大半を支配。ヤマト王権と呼ばれていました。

 その奈良県の最南端に位置し、最も広い面積を有しているのが十津川村です。1889(明治22)年8月、この地は3日間にわたる未曽有の暴風雨で山崩れ、山津波に襲われます。

 死者168人、負傷者20人、全壊・流失家屋四26戸、半壊家屋148戸、耕地の埋没流失226町8反にのぼったと記録されています。

 この大災害で、十津川郷の住民600戸・3000人が郷里で生活を再建することが困難な事態に。当時北海道庁長官だった永山武四郎は、被災者の北海道移住を推薦し、樺戸郡への移住が決まります。

 樺戸郡というと、1881(明治14)年に竣工した「樺戸集治監(監獄)」が思い浮かびます。

 永山武四郎は1889(明治22)年、天皇が夏季に涼やかな地でお過ごしなさるよう「上川離宮造営地設定の儀」を上奏し、当時首相だった黒田清隆の決済を得ます。

 永山は離宮の警備強化と交通網整備のため、上川・空知地方に屯田兵村を、さらに小樽から上川までの道路・鉄道の整備を進めている時でした。これら工事には囚人を労働力として使役。樺戸集治監の囚人は1450人から2450人に増加させています。

 十津川村からの移住者は3回に分けて郷里を出発。小樽からは前年に開通したばかりの鉄道で市来知(いちきしり・現三笠市)に行き、その後滝川までは囚人が整備中の上川道路を歩いて滝川へ。

 既に季節は冬に入り始めており、これも囚人により建設中の「滝川屯田兵屋」で一冬を過ごしました。

 翌年、雪解けを待ち、移住者は樺戸郡徳富川(とっぷがわ)流域の移住地に移り、ここを新十津川村として開墾を始めます。

 移住民開拓の歴史を多くの人々に伝えるため、新十津川町は開町90周年を記念し、1980(昭和56)年、「新十津川町開拓記念館」が建設。レンガ造り二階建てで、移住民が入植当時住んだ開拓小屋と、人々の生活ぶり(母親と娘が食事を用意している姿、父親が鋸で木材を切っている姿、子供たちが学校で先生の授業を受けている姿など)を再現したコーナーがあります。また新十津川名産「金滴酒造」の法被や酒樽も置かれていました。

 開拓記念館展示品の中に、1889(明治22)年12月と日付が記された「誓約書」を見ることができます。そこには、艱難辛苦に耐え、励ましながら開拓を成功させようと誓い合う決意が伺えます。

この「誓約書」を起草したのは、移住総長として移住者をまとめ上げ、新十津川創立と共に初代戸長となった更谷喜延(さらたによしのぶ)です。「十津川人物史」には、以下のように、喜延の功績をたたえています。

「当時、移住民は故郷を離れ、厳寒の地に移り、境遇の急転風土の激変により、不安焦燥の念に駆られ、目前の事に気を取られ、永遠の計を忘れるものがあった。喜延は深くこの事を憂い、「移民誓約書」を作り、一致団結を強調、風紀の粛清を呼びかけ、且つ基本財産蓄積の計を確定し、各戸主に署名捺印させ厳守することを誓約させた。思うに今日新十津川発展の基礎は、喜延の高遠な識見による所が極めて大きいと言わねばならない」

 十津川移住者は、開拓に入るとすぐに学校建設に着手し、1891(明治24)年3月に小学校を建設し、また通学に不便な子どもたちのため学校数も増やしていきます。1895(明治28)年には「私立文武館」を建て、高等教育の場を提供しています。(新十津川町ホームページより)

 十津川郷土は古くから勤王派として官軍に協力していたこともあり、時の政府からは移住費を含め、手厚い援助の手が差し伸べられ、また明治天皇からも移住者全員に慰労金が渡されています。

 樺戸郡新十津川町は、奈良県吉野郡十津川村を母村として親密な交流を続けています。

「新十津川町開拓記念館」のすぐ近くには「出雲大社分院」があり、長く移住民の心の支えとなっています。境内の横には、北海道の命名者松浦武四郎の歌碑が置かれており「日数経て突区の里に来てみれば ここも変わらぬ茅ぶきの宿」と詠まれています.武四郎が訪れた時は寒村だったのでしょう。なお、突区は現在の新十津川町字中央、アイヌ語でトックとの説明が付記されています。

 600戸が新十津川村に移りましたが、その内95戸が明治22年屯田兵に志願し、38戸が北滝川兵村に、57戸が南滝川兵村に駐屯。北の守り、予定されていた上川離宮の警護、さらに北の大地開拓に従事しました。

 滝川兵村への入隊者を含め、奈良県からは134戸、約600人が北海道各地の屯田兵村に入営。滝川に近い空知管内や留萌管内が多く、1895(明治28)年の西秩父別(七戸)、南一已(8戸)、納内(6戸)、翌1896(明治29)年に東秩父別(6戸)に入営。十津川町の入植者と合せ、この地域の農業振興に大きく貢献しています。1899(明治32)年には上川地方の士別(1戸)、北剣淵(2戸)、南剣淵(4戸)が入営。また、自然環境の厳しい北見・網走地方にも、1897(明治30)年の中野付牛(北見・2戸)、下野付牛(2戸)、そして1898(明治31)年に南湧別(1戸)に入営されたと記録されています。