社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (14) ―越中(富山県)の北海道開拓

 猛威を奮う新型コロナの治療薬としてアビガンが注目されていますが、この薬を製造しているのは「富士フィルム富山化学」です。

 本社は東京ですが発祥地は富山県で、主力工場も富山にあります。富山県には現在に至るまで多くの製薬会社が存在しています。これは富山藩の二代目藩主・前田正甫が、城下の製薬店や薬種業者の商売を保護し、全国各地で売薬を奨励したことに端を発します。

 越中の「配置薬業(置き薬)」は、江戸時代から有名で、蝦夷地にも定期的に訪れ、木箱の薬を追加・補充して回りました。北海道(蝦夷地)と富山(越中)の縁は薬を通じて古くから深い繋がりがあったものと思われます。私自身、子どものころに越中の薬屋さんが自宅の置き薬を補充しに来ていたことを記憶しています。

 私が生まれ育った留萌市の隣には沼田町というまちがあります。JR留萌線の留萌―深川の間に沼田駅があり、この駅を舞台として1999年後半、NHK朝の連続テレビ小説「スズラン」が放映されましたが、覚えている方もいらっしゃるでしょう。

 さて、沼田という地名はアイヌ語ではありません。なぜこの地に沼田、という名がついたのでしょうか。

 その端緒は1894(明治27)年。沼田喜三郎という者が郷里から18戸の移住者を伴ってこの地に移住し、開拓の鍬を下ろしたのが沼田村の始まりです。

 沼田は越中国砺波郡(となみぐん)新西嶋村(現・富山県小矢部市:おやべ・し)出身で、1882(明治15)年に小樽・妙見川で水車による精米業を営んで、財を成します。

 1893(明治26)年、故郷・東本願寺の支援を受けて1千万余坪の土地を取得。雨龍本願寺農場・開拓委託会社を設立します。前出の通り翌年に故郷富山県砺波から18戸、その後も富山・新潟から400戸を入植させています。

 この地に鉄道(留萌線)が敷かれる際、沼田は広大な土地を無償提供するなどして誘致に力を尽くしたこともあり、「沼田駅」となったわけです。また1922(大正11)年には、この地の呼称も「沼田村」とされました。「沼田開拓神社」には祭神「沼田喜三郎翁」として祀られ、沼田町と富山県小矢部市は友好姉妹都市の関係を結んでおり、夜高(ようたか)行灯祭りなどで交流を深めています。

 富山県(越中)から北海道への移住者は、記録のある1882(明治15)年から1935(昭和10)年までの間に4万8445戸・約25万人と都府県で5位。ただし、1897~1901年に限ると2位、02~06年と1907~11年は1位で、明治後期に急増しています。

 その理由は、第一に明治の租税負担額の増加で、中小農民が土地を喪失し弱小の小作農民に没落したこと。豊かな農地が得られる北海道に生きる望みを託したことが挙げられましょう。

 第二の理由は、この時期に発生した河川の氾濫による大洪水や「うんか・バッタ」の大発生による農業被害があります。

 集団移住は、30年代初頭には現在の小平町、苫前町、羽幌町、門別町と、道北地方が中心。その後、滝上町、帯広市、大樹町、広尾町、幕別町など道東地区への移住が多くなっています。1893(明治26)年には砺波地方の移住団体が旧栗沢町に、1900(明治33)年には同じく砺波移住団体が名寄市に移住し、故郷「砺波」の地名をつけています。

 1894~96年に発生した小矢部川、庄川、黒部川の氾濫は砺波地方を中心に大災害をもたらし、困窮した農民は、芦別、雨竜、帯広(河西郡大正、河西郡伏古、音更)、さらに幕別町五位に集団移住しました。移住者たちは農業王国と呼ばれる現在の十勝発展に、その礎として大きく寄与しています。

 屯田兵制度による富山県からの移住は246戸(堀口敬調査)となっていますが、1895(明治28)年から1898(明治31)年までの間の平民屯田期間に201戸と、全体の82%に達しています。この時期に発生した自然災害に伴い、農民が屯田兵として北海道に生活の場を求めたのではないでしょうか。

 1895(明治28)年、道央の東秩父別と南一已(いっちゃん)に62戸、翌1896(明治29)年に西秩父別と納内(おさむない)に44戸、1898(明治31)年に道東の野付牛(のつけうし)、湧別に合計66戸が入営しています。

 富山県(越中)は親鸞聖人が布教した場所でもあり、富山県人が移住した道内各地には、浄土真宗のお寺が多く見受けられます。

 移住者達は強い信仰心と、たゆまない勤勉さで厳しい未開の大地を切り開いていきました。北海道に移住された富山県人は、故郷を去って不退転の決意と、東西両本願寺門徒の連帯感を強く懐いておりました。その粘り強さは「越中魂」とも言われています。

 1900(明治33)年、上川郡鷹栖町にに入植した入善町小摺戸(にゅうぜんまち・こすりど:富山県新川郡入善町、黒部市の隣)の50人は、「業成ラザレバ死ストモ帰ラズ」と書いた幟(のぼり)を立てて渡道したと言われています。この幟は鷹栖町の光照寺(浄土真宗)に大切に保存されています(富山県郷土史会・前田英雄氏による)。

 富山県からは北海道の土木・建築業界を牽引した人物を輩出しています。まず、富山から単身渡道し1891(明治24)年に「地崎組(後の地崎工業)」を創業した初代・地崎宇三郎氏。北海道を代表する企業として「道内土建業の雄」とも呼ばれました。

 その地崎工業を吸収合併したのが岩田建設。こちらも創業者は富山県出身の岩田徳治氏です。岩田氏は親兄弟とともに1890(明治23)年に北海道へ渡り、丘珠町(札幌市東区)に入植しました。その後、18歳で家督を相続、旧制中学校を卒業し、1922年に当地・札幌村で岩田組を創業しています。後に札幌市議会議員、北海道議会議員なども歴任されました。

 その後、曲折を経てこの富山をルーツとする2社は2007年に合併。岩田地崎建設株式会社となっています。