社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (12) ―会津藩(福島県)の北海道開拓 後編

 1874(明治7)年11月、琴似屯田村(札幌市琴似)に208戸の兵屋が完成します。設計したのはサッポロビール工場の創設者・鹿児島出身の村橋久成です。

 翌年5月に屯田兵の入営が始まりました。屯田兵は18~35歳の身体強壮な者で、武器は官物、農具・家具一式・移住支度金・3年間の米と当座の資金が支給され、医療と埋葬金が提供されるという条件。会津藩(福島県)からは57人が参加しました。会津の旧領から減封された斗南(青森県)で厳しい生活を強いられていた彼らにとって、兵屋は粗末ながらも囲炉裏も畳もあるこの小屋は、ようやく人間らしい暮らしができると安堵したのではないでしょうか。

 入営後、彼らは学齢期の子どもたちを放置するのは将来のためにならないと考え、出身地別(会津系・仙台系)に寺子屋式の教育を開始。1877(明治10)年には官立琴似学校(現琴似小)が開校。当時、北海道で一番の学校が誕生しました。

 その前年の5月には山鼻屯田兵村(札幌市中央区)も開設。こちらには旧会津藩から53戸が移住しています。屯田兵を統率していた永山武四郎は「屯田兵の子弟も兵村第二の代表者であり、その教育には最も重きを置くべし」と指導し、出身地ごとの有志が、寺子屋式教室で読み書き・算盤を教え始めました。

 すると、琴似学校と同年の1877年には木造2階建てのアメリカ式校舎が完成。こちらは山鼻小学校として現在まで存続しています。

 このほか、福島県からは1884(明治17)年に江別(23戸)、1891(明治24)年に美唄の高志内・茶志内(2戸)、1893(明治26)年に美唄と東当麻(23戸)、1898(明治31)年に野付牛(北見)と湧別(50戸)、1899(明治32)年に士別・北剣淵・南剣淵(46戸)など、琴似・山鼻を含めて258戸が屯田兵村に入営(移住)しています。

 さて、明治期前半、福島県からは戊辰戦争に敗れて失業した士族が中心として渡ってきました。たとえば明治3年には八雲町、長万部町、北檜山町(現せたな町)に入植していますが、明治の後半になると、農民団体の移住が多くなっていきます。

 1891(明治24)年、旧会津藩の重臣・丹羽五郎が瀬棚郡瀬棚村(北檜山町字若松)に移り住み、丹羽農場を開設。翌年には猪苗代(現福島県耶麻郡猪苗代町)付近から移民団が入植しました。1895(明治28)年には丹羽の家族も移住し、1902(明治35)年と1907(明治40)年には会津・宮城からあわせて85戸を入植させています。

 入植者たちに譲渡する土地が決まった後、丹羽は入植者の団結と敬神の心を養う為、神社を設けて玉川神社と名付けました。当時は移住者の住居もまだ熊笹で茅葺きした仮小屋であったので、神社も粗末なものであったと思われます。また丹羽五郎は、戊辰戦争の際に飯盛山で自刃した白虎隊士19人と同世代で、その中に自身の従兄弟2人がいたこともあり、彼らの慰霊を弔うため1924(大正13)年7月に「会津白虎隊玉川遥拝所」を建立しています。

 一方、1896(明治29)年には会津若松の高瀬喜左衛門ほか7人が「会津殖民組合」を設立し、太櫓郡太櫓村(ふとろむら、現瀬棚郡北檜山町字若松・丹羽農場と同じ住所)の未開拓地に入植し、若松農場を開設します。

 その翌年には、野馬追で有名な福島県相馬から、興復社の移民団が十勝地方中川郡豊頃村ウシュシュベツ原野(現豊頃町字二宮)に入植、開拓に着手しています。

 豊頃町(とよころちょう)は十勝地方発祥の地とされる場所。興復社は二宮尊徳の孫・二宮尊親が社長となって設立されたもので、1897(明治30)年に福島県下の困窮農民を北海道に移し、報徳精神(道徳と経済の一体化を図る精神)をもって土地を開墾し始めました。尊親は自ら移民団の先頭に立ち、180戸の移住者とともに豊頃へ移り住み、1200町歩あまりの農場を開拓しました。

 この際、同時期に十勝へ移住し「農聖」「拓聖」と呼ばれた晩成社の依田勉三(伊豆出身)や、72歳で厳寒の斗南(陸別町)に入植した関寛斎(千葉出身)とも交流を重ねたとのことです。豊頃町には、二宮尊親の書「修学習業」が町の文化財として、また尊親直筆の「道歌」や紋付羽織が報徳二宮神社に保存されています。

 また1898(明治31)年には、当時福島県で伊達郡大田村の村長をしていた菊田熊之助が、職を辞して団体移住を決意。先発隊5人とともに東旭川の山岳地帯であるペーパン川流域に入植、笹小屋10戸を建て、そこへ第1陣として52戸・173人が入地しました。

 ペーパン(米飯)川は大雪山の麓「旭川21世紀の森」から「旭山動物園」に流れる川で、現在は旭川市東旭川町となっています。入植当時は洪水などに悩まされ困窮を極めましたが、開墾事業を軌道に乗せ、入植から6、7年かけて総戸数78戸・423人にまで規模を拡大させました。

 ペーペン川流域には「瑞穂(みずほ)」「米原(よねはら)」「豊田(とよた)」の3地区があり、いずれもコメに因んだ地名が付いています。移住団の努力で、この地区は道内有数のおいしいコメを産出する地域となっています。

 1979(昭和54)年には、彼らの移住90周年を記念し、郷里の伊達郡保原町の愛宕神社境内に「福島団体北海道移住記念碑」も建てられています。

 会津藩を始めとする福島県からの北海道移住者は、明治末期から大正初期にかけて毎年1000~1500戸、3500~5400人にも及び、1882(明治15)年から1935(昭和10)年の間に3万3000戸・約12万人が移住しています。その一人ひとりが苦労を重ね荒野を拓き、現在の北海道発展を支える礎になっていると言えましょう。

 奥羽戦争、北海道・斗南移住、東日本大震災・原発事故、2018(平成30)年に起きた連続台風被害――過去、現在に亘る多くの苦難を乗り越えてきた会津人(福島)魂に、私はあらためて感銘を覚えるのです。