社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (11) ―会津藩(福島県)の北海道開拓 前編

 昨年10月23日に更新した本ブログ(6)の津軽藩(青森県)の北海道開拓で、オホーツク管内斜里町の「津軽藩士殉難の碑」について記載しました。

 ロシア南下に対処すべく、津軽藩の230人が1807(文化4)年、宗谷・斜里に配置されましたが、厳寒から来る浮腫病や脚気により、斜里で72人、宗谷で40人を超える津軽藩士が亡くなったとのことです。碑はその霊を弔うために建立されたものです。

 蝦夷地の分領支配時、その津軽藩に代わって翌年からこの地の守備を担ったのが会津藩でした。会津藩は587人を宗谷地方に派遣。さらに706人を樺太・久春古丹に向かわせ、これらの地の警備に当たりました。標津町や紋別市には会津藩士の墓が安置されています。

 函館市の古地図には「会津ルスイ」と記された建物の図があります。1859(安政6)年、幕府は蝦夷地を分割し奥羽諸藩に統治させました。その中で会津藩は、今の網走・北見・知床半島統治を命ぜられ、留守居として函館山の麓(現・弥生町)に館を建てたものです。

 1867(慶応3)年10月、徳川慶喜が大政奉還。翌1868(慶応4)年1月に鳥羽伏見の戦いが勃発し戊辰戦争が事実上始まります。その後、奥羽越列藩同盟が結成されますが、新政府軍の圧倒的な火力により、中核だった会津藩は1カ月間の籠城戦の末、同年9月22日に降伏します。官軍は婦女子への陵辱をおこない、死体はそのまま放置。バンザイ突撃した老人たちは悉く斃(たお)れ、野戦病院は火に包まれて焼け死ぬ者や堀に身を投じる者が続出。多くの藩士や婦女子が自決する、悲惨極まる敗戦でした。

 一方、100人を超える(200・300人の説も)藩士は仙台から榎本武揚の率いる幕府艦隊で箱館に向かい、蝦夷共和国を樹立します。政府軍は雪解けを待って明治2年5月、圧倒的な戦力で箱館に上陸し総攻撃を開始。榎本軍は多くの負傷者を出して箱館病院分院(現・高竜寺)に収容されます。ですが、松前藩を主体とする軍勢が押し寄せて負傷者をメッタ切りにした上、生きながら火葬にします。その多くが会津藩士でした。

 1879(明治12)年、現在の高竜寺に「傷心惨目(しょうしんざんもく)の碑」が建てられました。「会津残同胞」によるもので、毎年藩士の霊を弔っています。

 また函館山麓の谷地頭には、柳川熊吉(箱館の侠客)が建てたと言われる「碧血碑」があり、800人に及ぶ榎本軍の慰霊を祀っています。碧血とは「義に殉じて流した血は3年経つと碧色になる」との中国の古事によるものです。

 明治維新前に幕府と一体となって攘夷派征伐に荷担した会津藩により、仲間を奪われ、自身も幾度も命の危険にさらされた長州藩の木戸孝允は「会津藩降伏人1万4・5千人を蝦夷地に送り開拓に当たらせる」方針を掲げます。当時、蝦夷地は熊笹の生い茂る未開地で、まさに流刑に等しい措置。木戸は因縁深い会津藩士と家族の皆殺しを企図していたとも言われています。

 やがて明治2年、江戸に幽閉中の会津敗残兵と家族210戸・700余人の北海道移送が決まりました。一行は二陣に別れ、オタルナイ・オブカに到着しますが、与えられた宿舎は漁場にある「女郎屋」。1年以上捨て置かれ進退に窮します。当初、一行を担当していたのは長州主体の兵部省でしたが、開拓使が発足し、開拓使次官の黒田清隆の計らいで、一行は余市に入植することになります。入植した会津藩士一行は、子弟の教育のため学校を建てることから始め、校名を「日進館」とします。会津藩の藩校は「日新館」ですが、名乗るのは僭越との思いから一字を変えています。

 黒田は北海道の地には西洋果樹栽培が適しているとし、移住団に米国から取り寄せたリンゴの苗木を与えます。栽培に苦労すること4年、1879(明治12)年になってわずかばかりの実が残り、秋の到来に輝きをみせました。真っ赤な実です。これを見て「この色は殿(松平容保)が天皇様(孝明天皇)から頂いた緋の衣(陣羽織)と全く同じ色だ」と、全員胸に熱い思いが溢れ、感極まったそうです。その後、このリンゴは「緋の衣」と呼ばれ、余市一帯は一躍リンゴブームとなりました。「緋の衣」原木の枝は地元会津地方にも送られ、見事結実、復活しています。

 700余人が蝦夷地に向かった1年後、謹慎中の会津藩士と家族1万7000余人は恐山山麓に強制移住され、その後下北半島の斗南(となみ)に移封されます。会津藩23万石は3万石に減封されましたが、斗南の地は実質7000石。全員餓死せよとの沙汰に等しいものです。子どもらは栄養不足で衰え、大人は脚気を患い、頭髪は抜け落ち悲惨な生活に陥ります。餓死と凍死で6000人余りが死亡したとも言われています。

 明治4年、廃藩置県が定められ明治7年までに1万人が会津に帰郷しましたが、斗南から屯田兵に加わった藩士一家も多数いたといいます。

 琴似屯田兵村に入植した会津出身の「福田せい」の孫・山田信子さんは「琴似屯田百年史」に次のように書いています。

「祖母の福田せいはその時11才、弟の善七の手を引いて越後の塩川から舟に乗った。津軽海峡を渡って青森の下北、3万石の移封地(斗南)へ行くのである。男はわらじ・女はわら草履で、会津から塩川まで歩いた。青森の生活は厳しい自然の不毛の地で水も出ない。1年余の惨憺たる苦労の果てに、やっと得たのはわずかな芋であった」

 明治8年、琴似屯田兵村に57戸が入植しましたが、会津出身を秘し、青森県人として入植された方々もおられるそうで、実際にはもっと多いのかもしれません。