社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (42) ―周防国、長門国(長州・山口県民)の北海道開拓

 山口県は南側(周防国)を瀬戸内海、西側と北側(長門国)を日本海と三方を海に囲まれ、毛利氏が統括し長州藩と称していました。

 幕末には薩摩藩とともに討伐の中心となり、明治維新の原動力に。明治政府に、木戸孝允(桂小五郎)、大村益次郎、高杉晋作、伊藤博文、井上馨、山形有朋などの人材を輩出し、歴代の総理大臣も初代の伊藤博文、3代目の山形有朋、11代目の桂太郎から、安倍晋三に至るまで9人を数えています。

 明治4年の廃藩置県のあと、旧長州藩28代藩主毛利元徳は、開拓と北辺の警備を兼ね、さらに旧藩士の困窮を打開すべく北海道への移住を計画。家臣であった栗谷貞一を開拓委員長に。

 栗谷は1881(明治14)年9月、旧藩士3人と雇人数十人を引き連れ、北海道余市郡山道村字然別(現:余市郡仁木町然別)に向かいました。一行は冬を越し、翌年にかけ移住民の家屋建設、道路の開削など準備を整え、翌1882(明治15)年7月に第1回の移住者21戸86人を迎えました。

 毛利家の本姓は大江ということでこの地を大江村と命名。1883(明治16)年には30戸を、翌年にはさらに17戸を移住させています。その後、病院や学校も設置して移住地としての体制を整えていきます。しかし開墾は思うように進展していきません。それは移住者の大半が士族で農業経験が乏しく、また肉体労働を好まない人が多くいたせいでもあります。

 移住に当たり、旧藩士たちは各戸1万坪の土地、住宅と旅費・農具の貸付を受け、さらに3年間の米や味噌を無償供与されるという好条件。しかし無償供与期間が過ぎると生活は困窮し、離農者が相次ぎました。この事態を改善すべく、毛利元徳は1895(明治28)年に農地解放を断行します。10年の月賦で1戸あたり1万5000坪を供与し、自作農としました。このおかげで多くの移住者が1902(明治35)年までに代金を完済して自分の土地を持つことになり、以後順調に発展していきます。

 1907(明治40)年には徳島県や石川県の移住者と合わせて48戸となり、13町歩の水田、292町歩の畑地を所有するまでに開拓は進みます。1964(昭和39)年、大江村は徳島県から移住団を引き連れた仁木竹吉(たけよし)の姓をもって、余市郡仁木町となっています。

 仁木町は「フルーツの里」とも呼ばれ、国道5号線沿いには観光果樹園や農園が並んでおり、移住者たちの苦労が毎年たわわに実っています。

 札幌市手稲区の北部、小樽市(銭函地区)に隣接して手稲山口地区があります。この地は、1881(明治14)年に山口県出身により開拓。翌年、故郷の名にちなんで山口村と名付けられました。

 この地は砂地で開拓には苦労がともないましたが、追い打ちをかけたのが1882(明治15)年に発生した蝗害(トノサマバッタ)。せっかく生育したわずかな農作物が食い荒らされる事態となりました。

 蝗害はその後も続いたため、明治政府はこの地にバッタの卵を埋めて根絶を願い、この地に「バッタ塚」を建設。1978(昭和53)年に札幌市指定第1号史跡「手稲山口バッタ塚」として今も保全されています。

 開拓の地は砂地でしたが、開拓者の努力で明治後期には稲作も可能になり、またスイカの生産に成功し「山口すいか」(現在はさっぽろすいか)として特産品になっています。

 子どもたちの教育にも取り組み、1892(明治25)年には山口村立山口尋常小学校が開校し、現在の札幌市立手稲北小学校に発展しています。

 山口県からの農業移住として、1880(明治13)年に渡島半島西部にある檜山振興局爾志郡乙部町(にしぐん・おとべちょう)をはじめ、1884(明治17)年に岩見沢市、翌1885(明治18)年に恵庭市、1888(明治21)年に空知南部の夕張郡栗山町に移住したことが記録されています。

 山口県から屯田兵として北海道に移住された方は315戸約1600人(堀口敬)。屯田兵志願者が最も多く入営したのは滝川兵村で、北滝川兵村と南滝川兵村に合計100戸が1890(明治23)年に入営しています。

 奈良県民の北海道移住の項で記しましたが、1889(明治22)年に発生した未曽有の大水害と山津波で、奈良県十津川村の600戸が北海道に移住しました。

 奈良県からの移住民は囚人が建設した屯田兵屋に一時収容されました。この屯田兵屋が滝川兵村です。滝川は道央の米作地帯として今、青々とした水田が広がっており、屯田兵の方々の努力の成果が実っています。ただ、この地に止まった屯田兵はわずかと言われています。

 士族屯田が中心だった1885(明治18)年には野幌(江別市)兵村に20戸、1886(明治19)年に江別兵村に3戸、篠路(札幌市)兵村に44戸が入営しています。道都・札幌近郊の住宅地として現在発展している地域ですが、当時はまだ原始林が鬱蒼と茂っていた場所です。このような環境の中、屯田兵たちは道都の守りと食料補給に大いに貢献しました。また1890(明治23)年には釧路の南和田兵村に37戸が入営しています。

 札幌から旭川まで国道12号線を走行していくと、滝川市から美唄市までは29キロを超えて直線道路になっています。かつては上川道路と呼ばれ、樺戸集治監(月形刑務所)の囚人がオオカミやヒグマの恐怖と闘いながら、死を賭して開発した道路です。

 上川道路は戦略的に重要な位置にあり、滝川兵村に隣接する美唄、高志内、茶志内に兵村を建設。山口県からは1893(明治26)年にこれら兵村に、合計12戸が入営しました。美唄は騎兵、高志内は砲兵、茶志内は工兵と、道央の守りに機動力を備えました。

 同年、上川地方の当麻兵村に51戸が入営。屯田兵制度後期の1896(明治29)年には空知地方の秩父別兵村に19戸、北一已(いっちゃん)兵村に14戸、納内(おさむない)兵村に6戸が入営。明治31年から32年にかけて、南湧別、北剣菱、南剣菱の各兵村に夫々一戸、北見の野付牛(のつけうし)に4戸が入営しています。