社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (33) ―近江国(滋賀県)の北海道開拓

 滋賀県は山脈・山地が取り囲み、中央部に琵琶湖と近江盆地が広がり、全国で10番目に狭い面積。しかもその半分以上を山地や琵琶湖が占めています。経済力は高く、一人当たり県民所得は第4位、中期経済成長率も全国トップクラスです。この地では中世から近江商人が活躍。商工業が発達し、近代以降も近江商人の築いた経済基盤が日本経済発展に寄与しています。

 近江商人の出身地は、琵琶湖の東側(湖東)を中心に全県下に分布。北前船を利用して蝦夷地と交易していました。近江の敦賀港・琵琶湖と、瀬戸内海を利用した大阪・下関の2カ所の基点から、能登半島などを経由し蝦夷地と交易。蝦夷地からは砂金、鷹、さけ、にしん、コンブなどを、また関西地区からは医療品・小間物・雑貨などを取引し繁栄していました。

 松前藩と場所請負の取引を結び、蝦夷地沿岸のみならず国後島や択捉島でも場所を請け負い、松前藩の経済を支えたのも近江商人です。明治維新により場所請負制度は廃止されましたが、その後も近江商人の進出は続き明治中期には北海道全域に500あまりの店を設けていました。

 商業活動に止まることなく、田畑の開墾、銀行の開設、取引所の開設、織物工場の建設、炭坑の開山など北海道開拓の多くの分野に貢献。1882(明治15)年から1935(昭和10)年の間に、滋賀県からは6533戸、約3万人が北海道に移住しており、関西地区では兵庫県に次いで多い移住者数です。

 札幌市中央区のススキノから中島公園一帯の広大な土地に、かつて大規模な果樹園がありました。お雇い外国人として北海道開拓に尽力したアメリカ人、ホーレス・ケプロンの勧めにより北海道開拓使は果樹栽培を奨励。これに応えてリンゴ園を造成したのが水原(すいばら)寅蔵です。リンゴは「水原リンゴ」と呼ばれ、全国的に有名になります。

 水原は1818(文化15)年、近江国(滋賀県)甲賀郡三村生まれ。1856(安政4)年、松川弁之助に同行し箱館に渡ると、五稜郭の土塁工事や弁天台場の土木工事で松川の右腕として土木技術を存分に発揮。さらに島義勇、岩村通俊による札幌府建設を現場指揮する役割も担います。1876年の「開拓使麦酒製造所」建設や琴似屯田兵屋建設工事でも主要な役割を果たしました。

 その同年、水原が取り組んだのが先の果樹園造成です。「水原リンゴ」は札幌村、琴似村、手稲村に広がり、平岸には1900本の苗木が水原果樹園から送られています。札幌のリンゴ園面積は800haにまで広がり、全国一の生産を誇るまでに拡大していきました。

 中島公園・日本庭園の入り口に「四翁表功の碑」がありますが、水原はその一人として刻印されています。また、篠路の早山清太郎、島松の中山久蔵とともに「開拓率先の三翁」としても顕彰されています。

 北海道には950カ所もの天理教教会があり、大阪、兵庫、東京に次ぐとのことです。天理教は現在、国内に120万人の信徒を持ち、教会数は1万を超えていますが、その1割近くが北海道にあることになります。

 天理教の本拠は奈良県。1889(明治22)年に奈良県十津川郷豪雨で被災した人たちが移住したのが空知地方の新十津川です。被災者の中に多くの信者がおり、1893(明治26)年には北海道最初の教会「新十津川布教事務取扱所」が設立。道内で布教が広がっていきました。

 1916(大正5)年4月には、天理教滋賀団体として33戸と38戸の2団体が渡道。入植地は十勝地方河東郡鹿追町で、710町歩の原野です。当時、信者の属する湖東大教会は大きな赤字を抱えており、開拓を成功させた上でその土地を売却し、救済のために寄進しようとするのが目的だったそうです。天を敬う信者だからこその移住決断だったのでしょう。3月、まだ雪の残る原野に踏み入り、大変な苦労も強い信仰心で乗り切ったそうです。

 信者たちの懸命な開拓により耕作も進み、1920(大正9)年8月に土地を売却。その代金を湖東大協会の負債の支払いに充てることもできました。売却後、帰郷する人たちもいましたが、多くが小作人としてその土地に残り、現在なお数十戸が2代目、3代目として残っています。

「フルヤキャラメル」と聞くと懐かしさと、口中に溢れる甘さが思い出されます。古谷辰四郎が札幌区に創業した「古谷商店」が始まりです。古谷は1868(慶応4)年、近江国野洲郡行合村(ゆきあいむら:滋賀県野洲市)に生まれます。生家は旧家でしたが、当時は衣食にも困る状態。13歳で奉公に出ます。2年の内に父が、兄が、そして母が次々と亡くなり、単身となった古谷は大阪の乾物問屋に入って商人根性を磨きます。

 その後北海道で一旗揚げようと無一文で江別に渡り、はんてん、股引、わらじがけで必死に小売店を回っていたそうです。1912(大正元)年、製造分野に事業を拡げ、精米と黒砂糖の精製加工に取り組みます。これが「フルヤのキャラメル」の第一歩。1925(大正14)年にはミルクキャラメルを大量に売り出し、明治や森永の競合を押しのけ業界一の立場を確立しました。「古谷産業株式会社」の成り立ちです。1984年(昭和59)年に会社は閉じますが、孫にあたる古谷勝が1988(昭和63)年に「ショコラティマサール(株式会社マサール)」を創業し、今に至っています。

 屯田兵として、北方の守りと北海道開拓に従事した滋賀県出身者は合計25戸約100名。上旭川(永山)・下旭川に夫々9戸、7戸が1892(明治25)年に入営しています。この地は鬱蒼とした原始林で、木々の伐採、熊笹や雑草の刈り取り、切り株の除去は困難な作業でした。その他、美唄(1戸)、剣淵(1戸)、西和田(3戸)、野付牛(北見3戸)、南湧別(1戸)に入営しているのが記録されています。