社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (31) ―尾張国・三河国(愛知県)の北海道開拓

 愛知県は廃藩置県で尾張国・三河国が中核となって名古屋県となり、明治5年に愛知県と改称しています。トヨタグループを中核とする製造業が牽引し、県内総生産は全国第2位、製造品出荷額は全国1位。年間商品販売額、農業生産額でもそれぞれ全国3位、8位と日本有数の経済力を誇っています。

 旧尾張藩主・徳川義勝は、藩士授産事業として北海道開拓を目指し、1877(明治10)年、家老の吉田知行(ともゆき)ら3人を北海道に派遣。3カ月にわたって適地の調査をしました。

 その結果、選定した土地は箱館から近く移住経費の安い渡島半島北部・有楽部(ゆうらくぶ)。翌年の5月には北海道移住者が決定し、同7月に11戸50人、単身者6人が海路で箱館へ。そこから陸路で北海道山越郡有楽部の地に入りました。

 移住は1896年まで続けられ、合計78戸380人、単身者29人の士族が、徳川家開墾試験場に入植しています。なお、若者の育成のため、10歳以上14歳未満の者を1886(明治19)年より3年間にわたり単身で移住させ、24人が「幼年舎」と呼ばれる宿舎で学問と農耕に携わりました。

 さて、1879(明治12)年3月、徳川家は開墾試験場を「八雲村」として独立させることを開拓使に出願して認められ、胆振国山越郡八雲村(現在の八雲町)が誕生しました。八雲の町名は尾張徳川家18代の徳川義礼が、熱田神宮の御祭神が詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに…」から名づけたものだそうです。

 八雲の地は火山灰性土壌で、農耕に適していたのは馬鈴薯。その後、酪農へと生活の糧を広げていきました。北海道の土産物として木彫りの熊が有名ですが、これは八雲が発祥の地。熊の木彫りは、尾張徳川家当主・徳川義親が1923(大正11)年、欧州旅行の際スイスで熊の木彫りを購入したことが契機。翌年「徳川農場」に送り、農場で働く農民たちやアイヌの人たちに、冬期の収入源として熊の木彫りを生産するよう奨めたのが始まりです。

 1888(明治21)年に設営された大新地区の墓地には、吉田知行ら移住者たちが多数埋葬されており、墓碑はすべて故郷である名古屋の方向を向いていると伝えられています。また同町には、尾張徳川家が運営していた旧徳川農場を引き継いだ八雲事業所があり、社長は代々、尾張徳川家当主が務めています。1878(明治11)年に寺子屋式学問所、翌年には徳川家が全額負担した「八雲学校」が完成、子弟教育に大いに活用して今日に至ります。

 さて、1891(明治24)年に美濃(岐阜県)、尾張(愛知県)一帯で日本史上最大の内陸型地震が発生しました。マグニチュード8・0、震度7を記録したこの地震は濃尾地震(美濃・尾張地震)と呼ばれ、愛知では西部尾張地域を中心に死者2339人、負傷者4594人、住宅全半壊11万4527戸という甚大な被害をもたらしました。

 これを受けて政府では北海道移住支援の論議がなされ、愛知県3郡(東春日井、西春日井、丹羽)の農民たちが北海道移住を決意。1894(明治27)年、56戸320人が、石狩郡生振(おやふる)原野に入植しました。

 移住農民らは樹木と熊笹が生い茂る原野の開拓に苦しみ、初年度の収穫はソバ、バレイショ、インゲンマメなど5~10俵のみ。越年も難しい有様となったあげく、2年目は害虫が発生して大きな被害を受け、さらなる困難を極めました。

 それでも移住者たちは懸命の努力を重ね、4年目の1897(明治30)年には初めて収穫の一部を販売できるまでになり、出稼ぎする必要もなくなりました。1901(明治34)年、3カ所の祠(ほこら)に祀っていた天照大神(あまてらすおおみかみ)を合祀(ごうし)して生振神社が誕生。他方で移住翌年には学校を建てて子どもたちの教育を始めました。後の生振小学校です。

 また1895(明治28)年、同じく濃尾地震で被災した愛知県の30戸約150人や岐阜県の被災者が上川郡愛別町に移住。この年が愛別町の開基となります。

 さて、札幌市豊平区の平岸地区はかつてリンゴ産地として有名でした。このリンゴで大儲けしたのが、尾張国出身の一柳仲次郎です。

 一柳は三井物産勤務を辞め、1879(明治30)年に単身北海道へ。まずニシン漁に手を出すも失敗して無一文になりますが、その後リンゴと巡り合って「青田買い」の手法で巨利を得るようになります。語学堪能でロシア語、英語、中国語を駆使。三井物産時代に鍛えたセールスマンシップも発揮して事業を拡大していきます。

 1904(明治37)年には輸出組合を興し、リンゴやタマネギをロシア各地やフィリッピンに輸出。使用人も600人を超すまでに成長させます。1923(大正12)年の関東大震災では沿海州から木材を買い付けて本州で販売して大儲けした、と記録されています。

 のちには札幌商工会議所会頭や北海道議会議員に選ばれ、衆院議員も5期務めました。在任中の1939(昭和14)年に東京都内で死去。札幌には現在、遺跡も銅像もありませんが、北海道の一時代を担った愛知出身の風雲児でありましょう。

 もう1人、すでに触れた依田勉三や鈴木銃太郎とともに「晩成社」を結成し、オベリベリ(帯広)の開拓に取り組んだのが、尾張城下竹平町で生を受けた渡辺勝。依田、鈴木とともにクリスチャン学校のワデル塾で学び、未開の地・十勝で開拓に勤しみました。

 1886(明治19)年には鈴木らと士狩村の開墾に着手し、1893(明治26)年から然別村に定住。開墾や牧場経営に専念し、音更町開拓の先駆者ともなりました。

 また愛知県からは220戸、約600人が屯田兵制度で北海道に移住しています。目立って多いのがオホーツク海沿岸で湧別に71戸、野付牛(北見)に23戸が入営しています。

 1894(明治27)年から1897(明治30)年にかけて多いのは、濃尾地震による影響でしょうか。