社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (29) ―信州(長野県)の北海道開拓

「芽室町の開拓は明治十九年晩成社社員鈴木銃太郎、渡邊勝、高橋利八の三氏 人跡未踏の原始林のこの西士幌に入植の鍬を入れ農を起こしたことに始まる…思えば遠く九十三年を閲みて昼なお暗い密林に掘立小屋を建て粗食に耐え厳しい風雪との闘いそして度重なる災害を克服し営々開墾に従事…」

 道東自動車道・帯広ジャンクションの近く、河西郡芽室町西士狩に「芽室町発祥の地」記念碑があります。今回は鈴木銃太郎を取り上げます。

 鈴木は1856(安政3)年、上田藩士の長男として生まれ信州上田で少年期を過ごした後17歳で上京。キリスト教の洗礼を受け、アイルランドの宣教師ヒュー・ワデルの私塾・ワデル塾に入ります。

 同塾では依田勉三、渡辺勝と知り合って意気投合。同志の契りを交わし、北海道開墾を目指して依田が設立した「晩成社」幹部社員として1883年、北海道・十勝管内へ入ります。

 しかし1887(明治20)年、小作人の待遇改善に向けて固い決意で提案した「晩成社改革案」が認められなかったことから、同社の幹事を辞任。渡辺とともに新たな開拓地へ。それが当時「シブサラ」と呼ばれた芽室町西士狩でした。

「ここで農牧場を開設しながら新しい移住者の受け入れや指導に努力し、地域に尽くして芽室町開拓の創始者となりました」と帯広市内にある「帯広百年記念館」のパネルには記載されています。

 鈴木は同じキリスト教徒だった渡辺とともにアイヌの人たちと親交を結び、彼らに農業を指導したことでも知られています。

 1882(明治15)年の開拓使廃止後、1886年に道庁が設置されるまで道内は「札幌県」「函館県」「根室県」の3県に分けられていました。この当時に札幌県が十勝川でのサケ捕獲を禁止したことでアイヌの人たちが困窮したことから、鈴木らは「アイヌ民族に農業指導して彼らの困窮を救うべき」と県役人に上申。これがきっかけで農耕を行うアイヌの人たちに対する「給与地」制度ができました。

 鈴木の妹・カネは渡辺に嫁ぎ、鈴木本人はシブサラ・アイヌの酋長の娘(コカトアン常盤と改名)を妻としました。常盤は家庭を守りながら農業にも携わり、5男2女を育てています。

 その後も鈴木は敬虔な信仰心と開拓者の強い心意気を持ち続け、1926(大正15)年に71年間の人生の幕を閉じます。昨年刊行された「チーム・オベリベリ」(乃南アサ著、講談社刊)には、十勝開拓に挑んだ彼らの姿が生き生きと描かれています。

 札幌市北12条東1丁目にある「札幌諏訪神社」の南隣には、戦前まで「東皐園(とうこうえん)」と呼ばれる花畑がありました。長野県の「諏訪神社」から分霊を受けてこの地に祀り、市民の憩いの場を設けたのが上島正(かみしま・ただし)です。

 上島は1838(天保9)年、諏訪郡湖南村(こなみむら、現長野県諏訪市大字湖南)の名家で生まれます。成人の後に「かの北海道のことを聞きしより、北海道に心しばれる」と、北海道への思いを強くします。

 1882(明治15)年、横浜からいよいよ北海道行きの船に乗って札幌へ渡り、最初に手掛けたのが米の試作。当時、収量の少なかった米作の適地を研究し、乾いた畑に水を引いて造田することで、格段に収量を高めることに成功しました。

 同年、郷里・諏訪で移住者を勧誘すると、30戸を連れて円山村・札幌村・厚別村などへの入植を斡旋。上島の考案した稲作法を彼らに伝授して成功すると、諏訪からの移住者が造った米が「厚別もち」として高く評価されるようになりました。

 上島が稲作と同時に取り組んだのが花菖蒲づくり。開拓使のもと、お雇い外国人の1人で、リンゴやホップの育成を指導したルイス・ベーマーから交配の手法を学び、東耕園(後の東皐園)を造成、一大菖蒲園としました。

 生産された花菖蒲は大量に輸出されたと伝わっているほか、東皐園の東隣にある天使病院や修道院で働く外国人女性らが、この花園を散歩するのを唯一の楽しみにしていたと言われています。

 このほか長野県から移住し、北海道に多大な貢献をした人として、向井次郎と小池九一(こいけ・きゅういち)を欠かすことはできません。

 向井は1871(明治4)年、長野県小県(ちいさがた)郡長村字真田に生まれ、14歳で札幌へ。彼がまず取組んだのが軍馬の糧秣供給で、飼料をえん麦にすることで馬の強化を図ろうと耕作を拡大します。当時8万石程度だった収量を60万石まで拡大しましたが、これが後の道内における麦作の発展の基礎となっています。

 向井はその後、札幌消防の組頭として、当時頻繁に発生していた集落内の火災を身を挺して防火・消火に当たりました。以前、市内の南大通・創成川沿いにエレベーターがついた43メートルの望楼(火の見やぐら)がありましたが、この望楼建設の提唱者も向井です。

 一方の小池は長野県松本市生まれで、23歳で新天地を求め北海道へ。社会福祉事業に取り組み、特に1908(明治41)年に北海道庁立感化院が創立されると、実質的な施設運営にあたります。1919(大正8)年には自費で「札幌報恩学園」を設立し、その2年後には北海道社会事業団体連合会の設立の発起人にもなります。50年にわたって社会事業に貢献し、1955年に生涯を閉じました。

 最後に長野県から屯田兵として北海道に入植したのは14戸70人。1893(明治26)年に高志内(1戸)、茶志内(2戸)、東当麻(3戸)、西当麻(1戸)、1899(明治32)年に士別(1戸)、北剣淵(3戸)、南剣淵(3戸)に入営しています。