社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (24) ―江戸(東京都)の北海道開拓 前編

 最近の調査で、東京都民の移住先希望は北海道が沖縄県に次ぎ第2位。北海道の自然と新鮮な食べ物が魅力とのこと。しかし、鬱蒼とした原生林に覆われ、充分な食料も欠いていた開拓時代はどうだったのでしょうか。

 1800(寛政12)年、八王子千人同心の組頭・原胤敦(たねあつ:半左衛門)が100人の子弟を率いて蝦夷地に向かいました。目的は北方警備と開拓。原胤敦は50人とともに白糠(釧路)へ、弟の新介は残り50人と勇払(苫小牧)へ向かい、それぞれの地に移住し開拓を開始。翌年、苫小牧から斜里郡に抜ける斜里山道を開削し、現在の苫小牧市や白糠町の基礎を築きました。一行が蝦夷地に赴いた年は伊能忠敬が現地で測量を行った年でもあり、原胤敦も伊能と出会っております。

 経験したことのない寒さの中、1804(文化元)年には16人が亡くなるなど、例によって開拓は困難を極めました。この苦境を救うため、その2年前に設けられていた箱館奉行所は彼ら一行を雇って、各地で警備・開拓に従事させます。しかし、病人や死者が続出し、原胤敦は1808(文化5)年に八王子へ帰郷。一行の努力と事績を讃え、現在、苫小牧市と八王子市は姉妹都市提携を結んでいます。

 八王子千人同心はその後もロシアの南下政策に対応すべく、蝦夷地開拓と警備をあきらめませんでした。

 1858(安政6)年には、2度目の蝦夷地入植を敢行。秋山幸太郎らに率いられ、八王子同心約70人を含む150人ほどが、七重村薬園前(後に静観園)・藤村郷の二手に分かれて入植。一行が七重に至る同年、幕府の奥医師栗本鋤雲(じょうん)がこの地に「七重薬園(後の静観園)」を開設したこともあり、千人同心一行はこの地の警備とともに、医療・薬園・農園・養蚕・織物を経営に取り組みました。

 明治元年になり、榎本武揚率いる旧幕府軍が箱館に陣営を構築。すると八王子千人同心は官軍側に立ち、旧幕府軍と交戦。薬園は焼かれ、秋山幸太郎も戦死の憂き目に遭います。

 八王子千人同心は幕府の家臣団で、その発祥は甲斐国(山梨県)武田氏に遡ります。慶長年間(1596~1615年)には八王子を拠点とするようになり、10人の頭が100人ずつの部下を率いる「千人同心」の形が出来上がりました。

「関ヶ原の戦い」以来、徳川家を支える役回りとなり、江戸末期には権現・徳川家康を祀る「日光東照宮」の防火と警備に当たったほか、先述の通り蝦夷地の警備と開拓に取り組んだのです。

 一方、八王子千人同心には下総国(しもうさのくに:現・千葉県香取郡多古町原)から、原を姓とする一族が多く参加しておりました。その原家の系図に、北海道の行刑史に欠かせない重要な人物の名が認められます。その名は「原胤昭(たねあき)」。

 北海道開拓は、各都府県からの移住者による筆舌を尽くしがたい努力によって、現在の発展をもたらしていますが、忘れてならないのが「囚人」による苛酷極まる労役。“もう一つの北海道開拓史”です。「佐賀の乱」「秋月の乱」「萩の乱」「西南戦争」と続いた明治政府への反乱の結果、多くの士族が「賊徒」として捕縛。その多くは道内の集治監(監獄)に収容され、その後は道内各地の苦役に処せられました。

「囚人は例え死んでも、人員の減少は監獄支出を削減する」とは明治政府の冷淡極まる方針。延べ4万6722人が収監され、記録されているだけで1046人が亡くなっています。クリスチャン教誨師としてこれらの囚人の心の支えとなり、また「集治監」制度を改革したのが、件の原胤昭(たねあき)でした。

 原は1853(嘉永6)年、江戸八丁堀町奉行与力の家に生まれ、明治7年にキリスト教の洗礼を受け教誨師となり、囚徒教化に生涯をかけた人物です。

 1888(明治21)年、36歳で釧路集治監に出向。跡佐登(あとさと:釧路国上川郡弟子屈町)硫黄鉱山に赴きます。ここでは、300余人の囚人が硫黄採掘使役に携わり、硫黄ガスで失明する者145人、死者42人という惨状でした。「これはひどい、これは緩慢な死刑だ。囚徒も看守もよく我慢している。文明開化の明治政府の行刑の実態がこれか」「跡佐登硫黄鉱山における囚人使役の実情は正に人道の問題である」と、原は外役中止に全力で取り組みます。同じくクリスチャンの大井上輝前(おおいのうえ・てるちか)典獄(釧路集治監に就任した監獄長)の協力も得ながらのことです。

 2人の努力により、1888年中に鉱山の採掘使役が中止に。原は1892(明治25)年、道内集治監の本監となった樺戸集治監(月形刑務所の原型)の教誨師として、全道の囚人を支え続けました。1897(明治30)年には皇太后崩御で3000人の囚徒が放免されましたが、その際に尽力したのも原です。さらにその翌年、東京出獄人保護所を開設。道内の各監獄から放免された囚人の多数を保護する活動も行っています。

 札幌から国道275号線で1時間半ほどのところにある空知管内月形町の「月形樺戸博物館」には「囚人の造った道路の総延長は820キロ、開墾した畑の総面積は690ヘクタール。未開の厳しい自然下での開墾、鉱山開発、道路の開削、橋梁工事屯田兵屋の建設が、北海道開拓を推し進める原動力となった」と記されています。

 同町内にある篠津山囚人墓地には、39年間で病気や事故、虐殺で亡くなった囚人1022人が無縁仏として眠っています。