社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (20) ―常陸国・水戸藩(群馬県)の北海道開拓

 茨城県(常陸国)には江戸時代に15の藩が置かれていましたが、圧倒的な存在感を持っていたのが水戸藩。1661(寛文元)年から1690(元禄3)年までの30年間、第2代藩主を務めたのが水戸黄門で有名な徳川光圀です。

 このころ、蝦夷地ではシャクシャインの戦い(1669年)が勃発した時期。水戸藩は他藩にさきがけて北方に関心を寄せ、風土やそこに暮らすアイヌの文化についての知識を求めていました。

 さらに光圀は蝦夷地探検を計画。大船「快風丸」を建造して3度に渡り蝦夷地に赴き「米・麹・酒」と「塩鮭・熊やラッコの毛皮」を交易し、一度は現在の石狩地方へも航路を伸ばしています。

 1798(寛政10)年には幕府蝦夷地巡検隊が派遣され、近藤重蔵が先遣隊長として最上徳内などを引き連れて択捉島に渡った年で、蝦夷地開拓おける転換点です。この巡検隊には水戸藩の木村謙次も参加しており、報告書「蝦夷日記」が遺されています。このように水戸藩では歴史的に蝦夷地への高い関心を示していました。

 一方「間宮海峡」を発見し、伊能忠敬の「大日本沿海輿地残図」の蝦夷地部分を完成させたのが茨城県伊那町(現・つくばみらい市)で生まれた間宮林蔵です。ちなみに、伊能も茨城県の国境に近い千葉県九十九里浜の出身。間宮は蝦夷地で伊能から測量技術を学んでいます。

 15代将軍・徳川慶喜の父で、烈公と呼ばれたのが第9代水戸藩主の徳川斉昭(なりあき、1800―1860年)です。斉昭は梅の名所「偕楽園」や藩校「弘道館」を設け、また蝦夷地開拓にも異常な熱意を持っていました。

 斉昭は蝦夷地進出の伺いを幕府に出しますが許されず、部下や出入りの豪商を蝦夷地に行かせてアイヌ民族の生活などの現地事情を報告させています。蝦夷地との交易で藩財政を豊かにするとともに、藩の次男、三男や浮浪・寄生の輩を蝦夷地に送り込み、アイヌの女性に子どもを産ませ、産業振興や国防をさせようとしたとの驚くような話もあります。

 北海道の命名者・松浦武四郎が一時松前藩により刺客を放たれた時、彼を匿って援護したのも斉昭でした。彼はまた、水戸藩ゆかりの蝦夷地探検者たちが記した貴重な文献や資料を収集しており、それらの資料は現在も茨城県立歴史館に所蔵されています。

 明治時代に入り、新政府は北海道の開拓と北方防衛のため、諸藩による地域の分割支配を実施しました。いわゆる「分領支配」制度です。水戸藩は天塩国の苫前郡・天塩郡・中川郡・上川郡、および北見国の利尻郡が割り当てられ、明治2年8月から領有が開始されています。明治4年8月に開拓使の管轄になるまで水戸藩が治め、現在のこれら地域の基盤を創り上げたのです。

 こうした歴史的背景の一方、茨城県人の道内移住者は意外と少なく1882(明治15)年から1935(昭和10)年までの54年間で6950戸、約3万人。集団での移住もごくわずかですが、土田農場が記録されています。

 土田農場は北海道十勝郡生剛村(おべつこうしむら)、現在の十勝管内浦幌町生剛(せいごう)にありました。農場主は茨城県筑波郡上郷村(かみごうむら、現:茨城県つくば市)出身の土田謙吉。土田は上郷村で村長や村会議員を勤めるかたわら、製茶業などにも取り組みました。町発祥の地として、浦幌町では土田農場に関して以下の説明を表示しています。

「明治28年、十勝国浦幌に原野2000町歩の貸付を許され、本県(茨城)より15戸60名を移住させた。明治30年、富山・石川県より125戸805名を送り開拓に務め、明治32年畑400町歩を得た。また、別に原野670町歩の貸付を受け、牧場を設けて牛馬の飼育を成し、明治44年東宮殿下巡計啓の際、牡馬豊浦号台覧の光栄に浴した……」

 土田農場は移住民の心の拠り所とすべく、伊勢神宮から「天照大神」を分祀して現在の「八幡神社」に発展させるとともに、東西両本願寺に敷地を提供し寺院を建立。また子弟の教育のため生剛小学校(現:浦幌小学校)を、さらに住民の衛生を考え医院も建設しています。

 屯田兵としての移住は18戸95人で、1894(明治27)年に空知地方の高志内(1戸)、南江部乙(1戸)、北江部乙(4戸)、美唄(2戸)、明治31年に北見・下野付牛(1戸)、そして1899(明治32)年に上川地方の南剣淵(6戸)に入植しています。

「日本酪農の父」「北海道開発の父」と呼ばれ敬愛されている黒沢酉蔵も茨城県出身です。

 1885(明治18)年、茨城県久慈郡世矢(よや)村(現・常陸太田市)に生まれ、1905(明治38)年に来道。1909(明治42)年に札幌市山鼻村東屯田で1頭の牛の飼育から酪農を始め、1926(大正15)年に「北海道製酪販売國愛連合会」を設立。現在の雪印メグミルクです。さらに「北海道酪農義塾」(現在の酪農学園大学)も開設しました。晩年には「足尾鉱毒事件」で企業・政府と闘った田中正造を研究した全集(全20巻)に取り組み、1980(昭和55)年に完成させています。

 また、今の茨城県つくば市に生を受けた助川貞二郎は「札幌電気軌道株式会社」を設立し、札幌市営の路面電車を走らせました。開通の日は、開道50年記念大博覧会が開催される1918(大正7)年8月15日のわずか3日前でした。大博覧会も好評でしたが、電車も多くの人々に珍しがられ、博覧会の土産話になったそうです。現在の札幌市交通体系の基盤を作った人物です。