社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (2) ― 土佐(高知県)人脈の北海道開拓 後編

前回は徳弘正輝による湧別原野開墾、および武市安哉と高知県民200戸の樺戸郡浦臼「聖園農場」開拓について紹介しました。今回は、北見・訓子府の原野を開拓した「北光社」について記載します。

1896(明治29)年9月、8人の協議者により「北光社」が設立されました。高知出身の衆議院議員、土佐銀行頭取など地元高知の著名人が名を連ねておりました。

「北光社」の社長に就任したのは坂本龍馬の甥・坂本直寛(なおひろ:兄の直が龍馬の跡目を継いだ)、副社長は澤本楠弥(くすや)で、両名ともに土佐自由民権運動の活動家。また、クリスチャンでもありました。

澤本は地元土陽新聞に次のような勧誘文を載せています。

「楽天的な村落を建設し、天を望んで柄地(未開地)を開拓し、圧政なく、束縛なく、馬鹿な義理人情や風俗なく、人毎に田園あり、家具あり、自由あり、幸福あり、人情ある一種の理想的社会を創り出すのも実に人生至上の快事というべし。北光社の旗を認めて集まらんことを願う」

高知県山間部の小規模農業地帯にある元山(もとやま)村、本川(ほんがわ)村の農民が勧誘に応じ、翌1897(明治30)年、澤本楠弥の引率で400人が高知を出航しました。乗ったのは貨物船だったため、敷物は薄く実に狭い船内。全員が船酔いに苦しみ、麻疹も発生して子どもを含む死者が出るありさま。シラミの発生にも苦しんだといいます。稚内から網走沖に近づいた際には流氷で接岸できず、稚内に戻り停泊するも海は大荒れで、利尻島にまで避難せざるを得ませんでした。その後30日かけて網走沖に至り、艀(はしけ)に乗ってようやく上陸。3日間歩いて訓子府原野・野付牛(のつけうし)の「北光社」本部にたどり着きます。

移住者の1人、伊藤弘輔はあてがわれた「我家」に着き、悲惨な現実に茫然としました。

「やっとたどり着いた我が家は2間に3間の草小屋、草囲いで壁は外から透けて見える。屋根も草曳で夜は星が見えた。床に割り木が並べてその上に筵(むしろ)が敷いてある。出入口は筵を戸の代りに吊るしてあった。いくら高知で貧乏していても畳はある。妻も泣き出したのも当然である。あの『夢のような勧誘員の話』が思い出され身震いした」

「かくして北見市にようやく開拓の鍬が降ろされた。千古斧を入れざる原始林は昼なお暗く、羆(ひぐま)が咆哮して、背丈を没する原野は鹿・狐の跋扈するところ、音するものは常呂川の瀬音のみ。かかる環境の中で、鍬(くわ)、鋸(のこぎり)、鎌を唯一の頼りに、我が身を挺して原始林に挑む血と汗による苦難と窮乏の戦いが幾度となく繰り返されて……」(竹内班記念碑碑文)

社長の坂本直寛は4カ月足らずで現地を去り、浦臼の「聖園(土井)農場」へ。「政治活動に石狩が都合が良い」との本人の弁明ですが、「社長ならば入地直後の移住者の動揺をキリスト教の精神で激励し、助けることはできなかったのか」という指摘もあったとのことです。

副社長の澤本楠弥も入地7年目、開拓途上の明治37年、衆議院選挙に立候補すべく高知に帰り、同年10月に50歳で逝去されています。

澤本が帰郷後、現地責任者として指揮を執ったのは「聖園農場」から明治35年に「北光社」開拓団に参加した前田駒次です。前田の農場経営者としての能力を高く評価した同郷(高知)人・坂本直寛が強く要請したと言われています。

前田は北見地方で初の水稲の試作に成功し、特産物であるハッカや小豆・大豆の栽培で入植者の生活を守りました。25年間の道議会議員、4年間の野付牛初代町長を務め、鉄道誘致など現在の北見地方の発展の基礎を築きました。1945(昭和20)年、87歳で永眠しています。

高知県出身者として是非取り上げなければならないのは、初代北海道庁長官の岩村通俊です。岩村は土佐国(高知県)出身で、明治2年に開拓使が設置されると判官として参加。同年10月には、東久世通禧長官に率いられ、テームス号で島義勇判官と共に来道し、箱館府権判事として長官を補佐する任務に就いています。

明治3年、島判官の後任として札幌に着任、翌年早々に札幌本府の建設に着手します。島判官が厳冬の中取り組んだ壮大な札幌本府建設を引き継ぎ、周到な準備を重ねた上で明治6年に札幌本庁舎が完成します。建設労働者を引き留めるため、明治4年には官営の遊郭も建設します。

岩村は黒田清隆長官とのいさかいで判官を辞任しますが、1886(明治19)年、北海道庁が新設されると初代長官に就任。再び北海道開拓の指揮を執ることになります。

旭川市常盤公園に「世の中に涼しきものは上川の雪の上に照る夏の世の月」という岩村の句が石碑として残っています。岩村は、涼やかな上川に天皇の離宮を造営し、北京(ほっきょう)を置こうと、その建設を明治政府に建議します。

自然災害のリスクが低く(旭川で震度6以上の地震が30年以内に発生する確率0.55%:首都直下地震及び南海トラフ地震は70~80%)、涼しい夏を過ごせるこの地に、天皇および行政の要人を住んでいただきたいとの思いです。

今で言う首都機能の移転であり、本社機能の移設でありましょう。建議は黒田内閣により承認されましたが、日清戦争などにより実現できませんでした。

新型コロナが猛威を奮った今、大都市集中・密集を避け、自然災害のリスクを最小限とした「田園都市の時代」を真剣に論議する必要がありましょう。この点、岩村の目指した「北京」は今我々が取組むべき課題なのではないでしょうか。

高知県から北海道に移住されたのは4700戸、1万7500人で、この内屯田兵としての入植者は129戸・641人です。