社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (45) ―豊後国(大分県民)の北海道開拓

 大分県は山地の占める割合が多く、平野部は北部の中津平野、中部の大分平野、南部の佐伯平野に分かれています。海岸部は瀬戸内海と四国に面する豊後水道、日豊海岸があり、1871(明治4)年に旧豊後国内8軒を併合して大分県となっています。

 大分県北部の中津には、郷土愛の醸成と住民としての誇りを持ってもらうため、通学路に郷土出身の偉人・賢人の看板を立てていますが、その中に宇都宮仙太郎の名を見ることができます。

 看板には「日本酪農の父、雪印乳業の創始者の一人。北海道で牧夫として勤めた後、アメリカへ渡ります。各州の牧場やウィスコンシン大学などで農業技術を身につけました」と、記されています。

 宇都宮は大分県下毛(しもげ)郡大幡村(現中津市)で1866(慶応2)年に生まれます。この年は、大友亀太郎が札幌市の東西の基点となる大友堀(今の創成川)を開通した年です。

「北海道へ行って牛を飼いたい」。1885(明治18)年、20歳になった宇都宮は札幌に行き、真駒内牧場を訪ねます。同牧場はお雇い外国人技師のエドウィン・ダンが開設し、当時は町村金弥が牧場長として采配を振るっていました。

 町村に鍛えられて体力を付けた宇都宮は、乳牛をさらに深く学ぶためにはアメリカに行かなければならないと考え、町村の許しを得て1887(明治20)年に単身、渡米。彼の地で宇都宮は、優良なホルスタイン牛の導入、サイロに牧草を蓄える時の技術を学び、3年後に就業成って帰道。ホルスタイン2頭を飼って市乳の販売とバターの製造を始めます。民間でのバターの製造・販売はわが国で最初。「札幌バター」と名付けました。

 1902(明治35)年には札幌市の近郊(現在の豊平区菊水)に10ヘクタールの農場を開設。20頭余りのホルスタイン種を飼育し、本格的な酪農を開始します。この農場と宇都宮に魅かれ、牧夫として参加したのが黒沢酉蔵でした。

 黒沢は後に宇都宮の後継者となり、町村らとともに北海道酪農の先覚者と呼ばれるようになります。なお、黒沢は酪農学園大学の創始者でもあります。

 1915(大正4)年、市乳業者が結集、後の「北海道製酪販売組合(雪印乳業の前身)」に発展する「札幌牛乳販売組合」を結成。宇都宮は初代の会長に就任します。

 札幌市厚別上野幌には「雪印種苗」があり、その構内には「雪印バター誕生の記念館があります。その敷地内に1900(明治33)年に建てられた「酪農発祥の地碑」が建っています。1958(昭和33)年に建てられたもので、碑文は宇都宮の薫陶を受けた黒沢が揮毫したもの。

「仙太郎を頭と仰ぎ、仙太説いたそうです。郎の情熱のほとばしりによって、北海道の酪農が展開した」(札幌百年の人々より)

 宇都宮は1940(昭和15)年に宇都宮牧場で逝去。享年75でした。彼は平素から「牛飼いには三つの得がある。役人に頭を下げなくても良い、牛には嘘をつかなくても良い、その上、牛乳は人を健康にする」と話していたといいます。

 時は過ぎて2009(平成21)年9月30日、札幌駅前の好立地に構えていた札幌西武が閉館しました。その前身は赤レンガの百貨店として市民から親しまれていた「五番館」です。

 同館は1906(明治39)年に島根県出身の小川次郎が北4条西3丁目で建設した「五番館興農園」が前身です。その後、小川は日露戦争後の不況で資金繰りに困窮。この苦境から店舗を救い、その後の景気変動にも耐える基盤を築いたのが、小川の親友で初代社長に就いた小田良治でした。

 小田は1872(明治5)年、大分県速見郡日出(ひじ)町に生まれ、18歳で単身渡米し現地の高校を首席で卒業。語学力に秀でていたため、それを買われて三井物産に入社。同社札幌出張所長時代に小川の苦境を知って「興農園五番館」に出資し、初代社長に就任しました。

 小田は就任間もなく売り場面積を4倍に拡張し、女子店員を店頭に立たせ、現金販売に重点を置くなど近代的経営を先駆的に採用。第一次世界大戦後の不況では、米穀販売や自動車部(アメリカから輸入)を新設するなど、時代を先取りして経営を拡大していきました。

 従業員を大事にして「わたしは五番館丸の船長、君たちは船員だ」と常に話し、従業員のために風呂をつくったり、新鮮なミルクを提供したり、従業員の健康管理にも気を配りました。1943(昭和18)年、72歳で永眠。

 1872(明治5)年に「今井商店」として札幌に店舗を構えた「丸井今井」が百貨店としての業態を開始したのは1916(大正5)年ですから、五番館は丸井今井に先駆けること10年、北海道で最初の百貨店ということになりましょう。「丸井今井」「札幌三越」とともに売り上げを競い合いましたが、五番館のあった土地は現在、駐車場に。2017(平成29)年には当地に新たな高層ビルが建設されることが明らかとなっています。

 また大分県からは68戸477人の屯田兵移住が記録されています。1888(明治21)年、九州出身者が85%を占める新琴似兵村に19戸が入営し道都・札幌の警備を担当。1892(明治25)年から1894(明治27)年にかけては、機動的な作戦を担う特科隊が配され、美唄兵村には騎兵7戸、高志内兵村に砲兵4戸、茶志内兵村に工兵7戸が入営しています。1892年には下旭川兵村にも21戸、1894年には北江部乙兵村と南江別兵村にそれぞれ4戸と3戸。1897(明治31)年には北方からの侵略に備えるべく、オホーツク海近郊の中野付牛(北見)兵村に1戸、下野付牛兵村に1戸、さらに南湧別兵村に1戸が入営しています。