社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (41) ―安芸国・備後国(広島県)の北海道開拓

 広島県は広島市を中心とする県西部を「安芸国(あきのくに)」、福山市を中心とする東部を「備後国(びんごのくに)」と呼びます。広島県人は質素・倹約を旨とする浄土真宗門徒が多いせいもあり「真面目によく働く」と評判。移住先からの評判も高く、広島県は日本で最も移住者の多い県です。

 1885(明治18)年からは官約移民(ハワイ州との移住契約)が発効し、ハワイ州への移住が始まりました。それ以前の1882(明治15)年から1886(明治19)年までは、北海道への移住者数は青森県・秋田県に次いで都府県別で全国3位となっています。ちなみに、ハワイを中心とする海外には1万1122人が移住しました。

 北海道への移住は1880(明治13)年11月、室蘭郡に48戸移住したのが始まり。次いで1882(明治15)年、根室郡幌尻別村(明治39年に和田村に統合され、現在は根室市)に88戸が移住しています。

 幌尻別村では厳しい自然の中で苦しい生活が続き、1884(明治17)年には未曽有の大凶作が発生。温暖な瀬戸内の気候に馴れた広島の人たちにとって北海道の寒さは想像を絶し、数十人が病死するという悲惨な状態となりました。しかし、我慢強い広島からの移住者たちは漁業にも従事するなどして困難を克服していきます。

 時を経て2023年3月、北海道日本ハムファイターズが新球場を中心とする「北海道ボールパークFビレッジ」を開設します。その地が「北広島市」です。

 広島の名がつけられたこの地はどのように開拓され、今の発展につながったのでしょうか。北海道開拓の志を抱き、安芸国安芸郡段原(だんばら)村(現広島県広島市南区段原)出身の和田郁次郎(わだ・いくじろう)は、地元有志とともに開拓の地を選ぶべく、1882(明治15)年と翌年、北海道に渡りました。2度目の渡道で札幌郡月寒村を選定。ここを「広島開墾」とし、翌1884(明治17)年、広島県人25戸103人の入植を開始します。

 この年は前述したように大凶作があり、第一陣の25戸は苦難の開拓を強いられますが、懸命な努力で開墾は進められていきます。「広島開墾」の地は、河内国(現大阪府)出身の中山久蔵が1873(明治6)年に道南より北では初となる寒冷地米「赤毛種」栽培に成功しており「広島開墾」でも米作に取り組み成功を得ます。

 この成功により1888(明治21)年、広島からの移住が再開されます。その数は10年後の1893年には380戸・1200人を超えるまでに。時の北海道長官だった北垣国道は地名を先覚者・和田郁次郎の名を取り「和田村」に提案しましたが、和田や移住民は「広島村」と名付けました。その後「広島村」は1968(昭和43)年「広島町」、1996(平成8)年の市政施行で今日の北広島市として発展しています。

 1877(明治10)年、札幌農学校の教頭だったウイリアム・クラーク博士が、農学校を離れるにあたりこの北広島の地で「Boys Be Ambitious」の言葉を残しています。北広島市民憲章では次のように謳っています。

「わたしたちは『青年よ大志をいだけ』のこころを受けつぐ北広島市の市民です。わたしたちのまちは、広島県人らによって築かれ、北海道の寒地稲作をうみだした、誇りある伝統をもつまちです(以下略)」

 北広島市は石狩平野中部で札幌に隣接し、発展を続けており、総人口も現在5万8000人を超えています。1980(昭和55)年、広島県東広島市と姉妹都市を締結。また1996年の市政施行とともに「広島平和祈念公園」から「平和の灯(ともしび)」が分火されています。

 なお、和田郁次郎は道内各地の開拓に助力しており、札幌市西区西野の前鼻村七も指導。現在学校法人西野学園理事長の前鼻栄蔵は子孫です。

 広島県からは210戸(約1200人)の方々が屯田兵として北海道に移住しています。1886(明治19)年、北海道は3県1局(札幌県・函館県・根室県・農商務省北海道事業管理局)制度を廃止し北海道庁を設置。

 道都札幌の警護と食料増産のため、札幌近郊の江別と野幌に屯田兵村が開かれます。広島県からは同年、江別兵村(篠路含む)に13戸、野幌兵村に37戸が入営。江別には石狩川が流れており交通の要衝として重要な位置を占め、また養蚕兵村としての役割も果たしていました。

 野幌には「大麻(おおあさ)」という地名が今も残されており、麻栽培の中心地でもありました。何れも現在は札幌の郊外住宅地として発展しています。

 1888(明治21)年、根室地方の西和田辺村に21戸が入営。冒頭に記載した1882(明治15)年の根室郡幌尻別村(後に和田村)の近隣であり、この地の情報も先住者から受けていたのではないでしょうか。

 1893(明治26)年、上川地方の永山や旭川に近い当麻兵村に55戸が入営しています。その3年前に1890(明治23)年には「屯田兵召募規則」が制定され、農民を主体とした平民も屯田兵に応募できるようになりました。広島県からも新天地に賭けようとする多くの農民が参加。入植した年から米が試作され、地味も農業経験も豊かであったことから、米作は兵村全体に拡大。後の灌漑溝掘削工事もあり、現在の豊かな上川地方の稲作に繋がっています。

 同じく1893年には、空知地方各兵村への移住が目立っています。美唄兵村に6戸、高志内兵村に4戸、茶志内兵村に4戸が入営。さらに1896(明治29)年には同じく空知地方の秩父別兵村に18戸、北一已町(いっちゃんちょう)兵村に22戸、納内(おさむない)兵村に10戸に入営しています。

 屯田兵制度末期の1897(明治30)年以降では、同年に野付牛(現北見市)兵村に8戸、明治31年に北見地方の北湧別兵村に2戸とオホーツク地方にも入営しています。また、1899(明治32)年には上川地方の士別兵村に4戸、剣淵(けんぶち)兵村に11戸が入営しており、北海道の中央部・北部、東部に展開しております。