北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (40) ―吉備国(岡山県)の北海道開拓
岡山県は中国地方南東部に位置し、瀬戸内海に面します。廃藩置県後、吉備国(きびのくに)から備後(びんご)を除いた備前、備中(びっちゅう)、美作(みまさか)地域が岡山県を構成。山陽本線・山陽新幹線・瀬戸大橋・中国自動車道を始めとした大動脈が県を縦断し、交通の要衝となっています。
1876(明治9)年から1922(大正11)年まで、合計4128戸の岡山県人が北海道に移住しており、とくに道東、道北の極寒の地で開拓に挑まれました。
農業団体として、1897(明治30)年に中川郡白人原野(現:空知管内中川郡幕別町、帯広の東隣)へ2団体が入植。白人は「ちろっと」と呼ぶ珍しい地名ですが、現在は幕別町に編入。「白人」という名は「幕別町立白人小学校」として残されています。
1906(明治39)年には常呂郡サロベツ原野(現:オホーツク地方常呂郡佐呂間町)へ。さらに1915(大正4)年、斜里郡小清水町(現:オホーツク地方 斜里郡小清水町、網走市に隣接)にもそれぞれ岡山県農民が集団移住しました。
オホーツク振興局の北部、上川管内に接したところに滝上町があります。芝ザクラの名所として知られている林業と酪農の盛んなまちです。
この地には1909(明治42)年とその翌年、岡山県から18戸の団体が入植。移住団は金光教の信者で「金光団体」と言われています。金光教は神道系の教団で、本部は現在も開教の地、岡山県浅口市金光町大谷にあります。
「金光団体」を率いたのは若き岡本政道。移住先調査のため、移住前年の1908(明治41)年に北海道へ。北見地方が有望と聞き、函館から8日間を費やし網走に、さらに海岸沿いを紋別まで歩き滝上原野に至ります。この場所が肥沃な土地である事を確認し岡山に帰国。地元の大谷で希望者を募り、前出の通り1909年に第一団10戸が滝上町第一区に入植しました。
その翌年には第二陣8戸が第二区に入植。移住者たちは夢と希望を将来を託し、不屈の熱情を燃やして移住。しかし、彼らを待っていた現実は極めて厳しいものでした。
入植当時の滝上は、原始の密林が鬱蒼と生い茂るなか、自らの手で橋を架け、自らの足で踏み分け道を作り農地を切り拓きましたが、相次ぐ霜害、冷害で食料にも窮し、一時は全農地を教団に差し出し、支援金を得た上で小作人として働かざるを得ませんでした。
作物が実っても、紋別の集落に売りに行くには10里の道を馬そりで朝早くに出発し、夜遅くに戻るという難儀なもの。1913(大正2)年に北海道を襲った大冷害など数多くの自然災害も移住者を苦しめましたが、1918(大正7)年、滝上原野渚滑川に滝上左岸土工組合の設立が認可され、この地域で水田耕作が始まるまでになりました。
団長の岡本は1947(昭和22)年、戦後最初の村長選挙で民選制初代村長に。同年滝上村は町に昇格。岡本は1958(昭和33)年の滝上町開基50周年で勇退し、2代目町長は、高知団体の団長としてこの地に入植した当時未成年(数え19才)の朝倉義衛です。
滝上の小高い丘に大正時代、村の青年が桜を植えましたが、洞爺丸台風でその多くが倒木。町民の春の楽しみを復活させようと、2代目町長朝倉義衛が芝ザクラを公園に植え、現在は日本一を誇るまでになっています。
朝倉は次のような文章を残しています。
『想えば千古の密林におおわれた原始郷に、雪を踏み、熊笹を分けて入地したパイオニアは、理想と情熱に燃え、不撓不屈の精神を持って、報いられることの少ない一大事業に献身したのであります』。
以上、「滝上町史」を参考にしました。
岡山県から明治時代に屯田兵として北海道の各兵村に入営した方々は107人と記録されています(堀口敬)。
1887(明治20)年には岡山県から15戸が新琴似(札幌)に入営。新琴似兵村には中隊本部が置かれ、220戸が設営されていましたが、九州・中国地方からの士族が中心でした。当時この地には開拓がまだ及んでおらず、鬱蒼たる密林の中で隣の兵屋も見えないくらいで、屯田兵やその家族たちは故郷とのあまりの違いに茫然とするのみだったそうです。
1891(明治24)年、岡山県から現在の旭川市にあった西永山兵村に士族40戸が入っています。西永山兵村には兵庫、和歌山、岡山、徳島と、西日本各県から入営しています。屯田兵と家族は小樽から汽車に乗り空知太(砂川駅・滝川駅)に行き、そこから囚人が造った上川道路を歩いて兵村に。
屯田兵司令官・永山武四郎の名を冠した兵村は、密林や泥炭地はなく草原地帯という好条件に恵まれ、入植した年から豊かな収穫を得ることができました。この地には永山神社があり、永山の銅像が建てられています。
1891(明治24)年は美唄兵村(空知地方)に5戸、1893(明治26)年には東当麻兵村(上川地方)に12戸、西当麻兵村に5戸が入営。1894(明治27)年には、何れも空知地方の高志内兵村に4戸、茶志内兵村に5戸、北江部乙兵村に4戸、南江部乙兵村に2戸が入営。
1895(明治28)年に同じく空知地方の南一已(いっちゃん)兵村に1戸が入営しています。平民屯田になった1898(明治31)年にはオホーツク地方の上野付牛(北見)兵村に1戸、北湧別兵村に3戸、南湧別兵村に2戸が、そして1899(明治32)年には上川地方の士別兵村に1戸、北剣淵兵村に1戸、南剣淵兵村に2戸の入営が記録されています。
定山渓温泉を見出し、その開発に老年期を捧げたのが僧・美泉定山です。定山渓温泉の源流が流れ落ちている場所に、座禅姿の定山が温泉で滝に打たれている石像が置かれています。
その横には「美泉定山は文化二年、備前国(岡山県)で生誕、17歳の頃より全国の霊地を行脚の後蝦夷に渡り、慶応二年アイヌ民族の案内でこの温泉にたどり着き、病に悩む人々を祈祷と湯治で救おうと努力しました。」と案内板が置かれています。
ここにも北海道に貢献した岡山県出身の偉大な人物がいます。