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Interview

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“良識の府”としての使命を果たす掲載号:2017年1月

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伊達忠一 参議院議長

北海道選出国会議員として初めて参議院議長に就任した伊達忠一氏。議員としての経験年数などが重んじられる世界にあって、当選3期目で三権の長の座に就くのは異例。77歳の伊達氏は、その重責をどうまっとうするのか。議長公邸で話を聞いた。

徹底した中立性が求められる議長職

――議長就任は8月1日でしたね。

伊達 感無量でした。同時に、とてつもない責任の重さを感じました。よく“身が引き締まる”というような表現が使われますが、誇張でも過言でもなく本当にそんな感じです。

――いずれにせよ、31代目にして初めて北海道から参議院議長が誕生しました。

伊達 やはり国会というところは、経験というか期数がものをいう世界です。私は現在77歳。参議院自民党の中では、確かに最年長ではありますが、まだ3期目ですからね。本当にありがたいことです。

――やはり日常は一変したんでしょうか。

伊達 議長というのはものすごく中立性を重んじられます。こんなことがありました。私は自民党の道連会長でしたが、議長就任が決まって降りました。まだ道連会長の後任が決まっていない時、道内選出の同僚議員から、知事らが陳情に来るのでちょっと挨拶してくれないかと頼まれた。もう議長になっていたので躊躇しましたが、本当に簡単な挨拶ですぐ帰って構わないというので受けたんです。国会内の話ですから、見聞きした人がすぐに私に電話をくれました。党にしろ、個人にしろ、特定の会に出るべきではないと、何件も助言をいただいた。

そのあたりのことは党もしっかりしていて、さまざまな部会とか議連などがあるんですが、すべて退会させられます。会費なども一切なくなりました。

――どういう仕事が増えましたか。

伊達 もちろん、国会運営をしっかり束ねていくということはありますが、皇室行事への参加、各国からのお客さまのおもてなしは増えました。昼でも夜でも、やはり気を使います。自分の主観であまり勝手なことも言えません。各国のことについて勉強もしなきゃいけない。

先般もベトナム大使らが来られました。天皇陛下の訪問とか、ODAの関係とか、いまベトナムでは教育に力を入れていて、日本と一緒にやっていきたいとか、そうしたさまざまな案件について話をしました。

11月にはロシア連邦議会上院議長のワレンチナ・マトヴィエンコさんがいらっしゃいました。ロシアのナンバー3ともお聞きしています。もちろん12月15日の首脳会談を控えての訪問です。日本側が提案する8項目の経済協力プランのほかに、北方4島に日本とロシアの合弁会社をつくろうという話をされていた。日本に対する期待と要望は強いと感じました。

――何か手応えのようなものはありましたか。

伊達 私は1990年にサハリンから全身大やけどを負って札幌医科大学に緊急搬送されたコンスタンチン君の話をしました。知っているかと聞くと、「知っている」と。われわれはこれまでも協力してきていると言ったら、「その通りだ」と返してきました。

旧島民で、北方領土返還運動を23年にわたって引っ張ってこられた千島歯舞諸島居住者連盟の理事長だった小泉敏夫さんが11月24日に亡くなられました。93歳でした。その直後、私はロシア大使館に招待されました。私が北海道出身だということもあったのでしょう。大使側からは経済協力をどんどん発展させていこうという話をされた。

私は、今日初めてお招きいただいたけれど、やはり年に数回はさまざまな課題について胸襟を開いて議論をしていかなかったら、前に進まないんじゃないですかと言いました。

それと同時に、小泉さんのように北方4島の旧島民はみんな高齢で、もう5、6年もすると大半の方がいなくなってしまう時代がくる。だからこそ、われわれの時代に平和条約をはじめとして、さまざまな課題を解決しなきゃならない、という話をしてきました。

重鎮から参院選出馬決断を迫られた

――参議院議員生活も15年になりますね。

伊達 その間に野党にもなりました。そういう面では政治の裏表を知る上でも貴重な経験でした。そして、何より参議院の役割について、ずいぶん勉強させていただいた。

――道議からの転身で。

伊達 私自身にはそんなつもりはまったくありませんでした。当時、道議会の中に同期が6人いて、そのうちの一人・野呂善市にちらちらと参院選の話があったんです。しかし、決して環境はよくなかった。というのも森喜朗さんが総理の時で、内閣支持率は8%。結局、誰も出る人がいない。

そんな折、私は北洋銀行の武井正直さん、伊藤組の伊藤義郎さん、北海道電力の泉誠二さんから話があるからと某所に呼ばれたんです。「参院選候補はお前しかいない、決断してくれ」という話でした。もちろん断りましたが、向こうも引かない。全部こっちで段取りする、後援会長も見つける、いいからやってくれと。もう「はい」と言うしかないような状況でした。

妻からは泣いて反対され、同僚からはお前バカだなと言われた(笑)。でも、これはもうしょうがない。

その後、経済8団体が集まって私の推薦が決定しました。そして「連合後援会長は北電だ」と武井さんの鶴の一声で泉さんに決まった。泉さんは中川義雄さんの時に後援会長を断った経緯があって、そっちを断ってこっちを受けるというわけにはいかないと難色を示していましたが、最終的には就任してくれました。

――「政治家は決断だ」とよく言われます。

伊達 2001年が明けたら小泉純一郎さんが「自民党をぶっ壊す」と言って総裁選に立候補した。まさに“小泉旋風”となって、その夏の参院選で私は98万5000票をいただいて初当選することができました。この得票数は、いまだ破られていません。

2期目には党の副幹事長、参議院幹事長代理、国会対策委員会筆頭理事・副委員長、内閣府副大臣などをやらせていただいた。

見事なさばきに総理から絶大な信頼

――3期目に入って参議院国対委員長に就任。

伊達 参議院に上がってきた法案に対し、どれだけ成立したかという数字があるんですが、私が国対委員長の時、98・7%という戦後3番目の実績を上げたんです。民主党とのやり取りもずいぶんありました。もちろんケンカする法案もありましたが、医療や年金に関するような法案は、財政のことを考えたら8割9割は野党も与党も一緒なんですよ。与党議員だけで法案を通したからって、われわれがプラスになるわけではない。益は国民に平等にあたるんです。そういうようなことで野党を説得しながら積み上げたのが98・7%だったんです。これは感激でした。

安倍晋三総理からは「よく頑張ってくれました」とねぎらわれ「もう1年やってほしいと頼んでも断られますよね」と言われました。

――そんなエピソードが。

伊達 こんなことは二度ないでしょう(笑)。ちょうど役員の改選期でもあったのでやめさせていただきました。そうしたところ、議員会長から幹事長をやってくれと言われたんです。幹事長はナンバー2です。しかも、参議院の選挙制度改革を主導しなければならない。困難極まりないですし、どんな結論に落ち着いても批判を浴びるのは明らか。でも、これも天命だと思ってお引き受けしました。

一時は20県合区みたいな話がひとり歩きしましたが、最終的には4県の合区で10増10減。参議院幹事長として全県回りました。合区したところ、減員区になったところからは、ひどい扱いもされました。それでも先の参院選では、自民党が27年ぶりに単独過半数を得ることができました。

――世間には“参議院不要論”もあります。

伊達 参議院はわが国の政治の中枢にあり、法律案や予算、条約の審査のほか、国政に関する広範な調査を通して、国民の安心で安全な暮らしの実現のため、多岐にわたる政策課題に取り組んでいます。衆議院は、予算についてあれこれ言う人はいますが、予算を使った後のことにはあまり関心がない。参議院は逆で、この予算は意味があったのか、このODAの効果はどうなのかといったような決算について、とくに厳しくチェックしています。そういう意味でも参議院の存在は重要ではないでしょうか。

――そうした部分が国民に伝わっていないのでは。

伊達 そうかもしれませんね。参議院はこれからも二院制のもとで、衆議院の補完・抑制・均衡の役割を担い、“良識の府”として、その役割を果たしてまいります。

=ききて/鈴木正紀=