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北海道開拓の先覚者達(13)~伊達邦直・吾妻謙~更新日:2013年11月15日

    

 1947年(昭和22年)に出版された「北の先覚」の著者高倉新一郎は「伊達邦成の有珠伊達開拓と比べ、その辛苦においてこれに倍するものは伊達邦直の石狩当別の開墾である」と記している。
 なお、高倉新一郎は本ブログの「北海道開拓の先覚者達(1)~島義勇~」で紹介したように、北大名誉教授、北海学園大学学長を務め、札幌市民生協の立ち上げに深く関わった方である。
 それでは、当別開拓がいかに困難を極めたか、その中で家臣を励まし率先して開拓を進めた指導者伊達邦直について書いていきたい。

 今回登場する伊達邦直は、伊達家の支藩である岩出山(いわでやま)城主の長男として生まれた。伊達門別を開拓した亘理(わたり)藩城主だった伊達邦成の実の兄である。
 岩出山伊達藩は戊辰戦争で奥羽連合に参加。官軍になびいた山形を攻略し、戦功を上げるが味方の多くは官軍に下り、多勢に無勢で戦に敗れる。
 敗戦の償いは悲惨なもので、それまで1万4640石だった岩出山藩の禄高(ろくだか)は、わずか60石に減らされた。これでは730戸の家臣を養うことはおろか、邦直一家さえも支えられない。
 1869年(明治2年)8月、亘理伊達藩城主である弟の邦成は、北海道移住を認められ有珠郡の支配を命じられている。邦直も同様に蝦夷地移住の意を固め、家臣に計画を告げ全員の賛同を得ることになる。新政府に申請したところ同年10月10日、石狩国空知郡を支配地とすることを命じられた。
 賜った土地は海から遠く、道すらない物資の搬送に極めて不便な地だった。漁業からの収入も考え海岸に近い場所を願い出た、が拒絶される。
再度、家老の吾妻謙が太政官(だじょうかん)に申し入れたところ、今度は不届き者として伊達本家から自宅謹慎を命じられる有り様だ。
やむなしとして邦直は翌年3月に現地調査に行き、土地の引き渡しを開拓使に願い出るが、指定された土地はナイエ(今の奈井江)の地だ。小舟で石狩川を渡り、樹木の陰で野宿するなど、10日をかけて現地に到着する。しかしナイエの土地は石狩川を遡ること40里余(160キロ以上)で、開拓使さえも開墾が困難な土地であることがわかった。これでは大規模移住は困難であると邦直は判断し、再度嘆願書を提出したが許されることはなかった。戊辰戦争の時の朝敵の汚名がどこまでもついてきたのだ。
 すでに出発の準備が進められていたので進退極り、石狩川河口の聚富(しっぷ)の地を願い、ようやく認められた。

 1871年(明治4年)3月18日、第1次移住者として43戸160人が郷里を出発、聚富に向かった。途中濃霧に襲われ岩に衝突しそうになったがなんとか勇払に着き、薪や水を補給させるため10人を上陸させた。しかし荒波激しく、停泊し続けることができない。やむなく一行を置いたまま船は離れ、室蘭に着いた。船頭はこれ以上の航海は無理と断り一行は室蘭に上陸。未開の土地で背には荷物を負い、老幼の手を引いてようやく千歳に着いた。しかし河舟がない。一行がようやく目的地の聚富に着いたのは4月5日。郷里を離れてから18日もかかっている。

 開拓地として指定された聚富の地は海に近い砂地で、作物の生育には全く適しておらず、さらに樹木を切り開くと一層荒廃するような土地だった。移民の前途は暗く、一行は嘆き悲しみを堪えることもできなかった。
 たまたま、一行の一人の兄が開拓使の役人になっており、彼から当別の地は石狩より遠からず地味肥沃であると聞かされた。藁にもすがる思いで家老の吾妻が部下数名を引き連れて調査することとなった。第1回目の調査では道に迷い目的を達することはできず、第2回目の調査でようやく当別が開拓に好適地であることが判明する。
 開拓使にこの地の開拓を願い出、今度は東久世開拓使長官の許可を得、ようやく移住民一行の目的地が決まった。
 しかし、相次ぐ困難な状況に移住者の疲弊は甚だしく、意気消沈の状態だった。さらに、食糧その他の物資を載せた舟は数カ月を経ても何の連絡もなく、せっかくの新天地を前にして力尽きんとしていた。

 このような時、開拓使石狩出張所倉庫の建築があり、移民たちはその工事を請け負うことで、ようやく資金を手にすることができたのだ。
 仮の居住地であった聚富から当別までは道がなく、樹木が生い茂っている。まず壮年男子全員で道づくりに奔走し、11日かけて5里7町(22キロ)を開通。邦直も現地に入った。時に8月1日。出発から4カ月近くが過ぎていた。
 邦直は永住の地を得たことから、吾妻を故郷に派遣し当初計画通り残っていた800人の移住に動いた。故郷岩出山では第1次移住民の悲惨な経緯が知らされており、進んで移住に加わる者は180人余り。当初の計画を大幅に下回ったことにより、移住費用として貸与を受けた1万円は取り消される羽目に陥る。
 これにめげず、邦直は一家を挙げて移住することを決める。180名余りの移住民は第4次有珠移住団と共に、1872年(明治5年)に故郷を出発した。しかし、有珠から石狩へ向かう海上で、強風のなか暗礁に乗り上げ浸水おびただしく、衣服・食糧・什器はびしょ濡れ。婦女子はさめざめと泣きぬれた。

 新移住民と共に開拓が始められたが、当別の地は大木が生い茂り、その伐採や地中深くまで入り込んだ根を抜き取るのは困難を極めた。特に武士出身者達には全く慣れない作業だ。根と根の間に野菜や穀物を植えるしかない。昼夜を分かたず農作業にいそしむ日々が続いた。
 幸いその年は豊作で、人々はようやくにして安住の地を得たのである。
 邦直は吾妻の進言を受け、その年に5名の若者を選んで東京にある開拓使官営園で新農法を学ばせた。その成果が徐々に開花し、養蚕、製麻、果樹栽培が奨励されていった。1877年(明治10年)には西洋農具(プラウ)が入り始め、74年に有珠開拓団から贈られた馬が大いに活躍することとなる。各移住民の畑は次第に広がっていった。
 邦直一行の成果は故郷にも知れ渡り、移住を希望する者が次第に多くなり、79年5月には吾妻が率いて56戸250人が当別に入植した。札幌に近いこともあり、開拓模範村として有珠に並んで天下に言いはやされ、各地から移民が次々に入植。やがて今の大当別町が建設されていった。
高倉新一郎は邦直を「資性温厚、堅忍の意思強く、多くの困難に面しても決然身を挺して北地に移り、辛酸に耐え部下を慈しみ励まし遂に成功を見た」と評している(北の先覚より)。

 晩年の邦直は気の毒な日々を送ることになる。二男の直温は札幌農学校を卒業して海外遊学の道を歩んでいたが、にわかに病没。さらに、長年にわたる苦労を共にし、長く病床にあった夫人が、介抱の甲斐なくこの世を去った。邦直を助けて移住事業の完遂に協力した吾妻を始めとした多くの家臣も相次いで亡くなっていった。
 1891年(明治24年)1月、邦直は孤独の中、風邪が原因で突然この世を去る。享年58歳。長男の基理(もとただ)は真駒内種畜場や有珠から馬を仕入れたり、養豚組合を組織したり父親を助け活躍していたが、邦直が亡くなった年の4月に逝去した。
邦直没後の翌年10月、明治政府は邦直の当別開拓への功績を大として、孫の正人に男爵を授け華族に列した。
弟の邦成が当別を訪れた時、邦直は「荒磯に浮身ながらの群千鳥 波静かなる時をこそ待て」と一句したためた。邦直にとって、波が静かになったのは亡くなった時なのではないだろうか。今、石狩地方最大の収穫量を誇る当別町の果てしなく開けた水田を見る時、この先人の句が深く心にしみる。

次回は近藤重蔵について報告したい。