社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (28) ―武蔵国(埼玉県)の北海道移住

 埼玉県はかつて武蔵国の中部・北部に位置し、江戸時代から首都圏の一翼を担ってきました。現在は東京都、神奈川県、大阪府、愛知県に次ぐ人口735万人を擁しています。しかしながら、北海道への移住民は1882(明治15)年から1935(昭和10)年の間に3890戸と、46都府県では上から数えて37番目。埼玉県より移住者が少ないのは九州6県(熊本・佐賀・鹿児島・大分・長崎・宮崎)および島根県、京都府です。なぜ少なかったのでしょうか。

 埼玉県の現在の財政力指数は全国都道府県で第4位。1つには、江戸時代から続く土地の豊かさが、移住希望者の少なさに起因しているという向きがあります。

 また東京都だけでなく千葉、茨城、栃木、群馬、山梨、長野の各県と隣接する交通の要衝として栄えてきたことも移住を喚起しなかった要因の1つではないでしょうか。

 屯田兵としての入営も3戸のみで、屯田兵最後の入植地・士別に1戸、南剣淵(天塩国上川郡剣淵町)に2戸が入営したと記録されているだけです。

 この南剣淵の兵村は第三団体本部に属していましたが、この地は泥炭質の湿地で鉄分が多く、飲料水はおろか炊事、洗濯にも事欠く有様。給水溝の導入が必須でしたが、工事は遅々として進まず、水は3年もの間、士別川から汽車を使って運搬されていたといいます。

 本連載の群馬県や栃木県の項でも記しましたが、1910(明治43)年8月に関東全域を襲った大水害は、埼玉県にも甚大な被害をもたらしました。この際は東日本の1府(東京)15県を襲って死者769人、行方不明者78人、家屋全壊2121戸の被害をもたらしました。

 同年11月に「埼玉県熊谷測候所」が発行した「明治43年8月洪水報告」には、水害の状況を後世に残すべく、被害内容がつぶさに記録されています。

 報告書の冒頭には「緒言」として「今回の洪水たるや蓋し(けだし)前代未聞に属し実に惨劇凄愴(さんげきせいそう)を極め、県下11万余町歩を泥沼と化し、各種の財産をことごとく破壊し、幾多の生霊を幽鬼たらしむ。その損害は蓋し多大なりとす…」と記されており、作成者の思いの一端が伝わってきます。

 水害直後、明治政府の内務省は被害者に対して北海道移住を呼びかけ、翌年3月には栃木、群馬、秋田、福島、茨城、山梨、そして埼玉の各県から被災者たちがこれに応じて道内各地へ渡ります。北海道庁の調べによれば、山梨1427人、群馬572人など各県とも数百人単位の被災者が移住してきましたが、埼玉県からは28人のみと記録されています。他県同様の大きな被害を出しながら、なぜ埼玉だけ移住者がケタ違いに少なかったのか。北海道以外の地にはどれだけ被災者が移住していったのか。いずれも記録が残っておりませんでした。

 もう1つの大きな災害が1923(大正12)年9月1日11時58分、関東1府(東京)6県を襲った「関東大震災」です。この地震では全焼家屋38万戸、死者・行方不明者9万5千人というとてつもない大被害が発生。埼玉も南部を中心に被害が出て、計280人の死者も出しました。

 埼玉の主要各駅(川口・浦和・大宮・熊谷)には30万人もの被災者が押し寄せたと言われており、多くは県内の身寄りを頼ったものと思われます。ほかにも震災を契機に日本全国に多くの被災者が避難しましたが、この際は北海道にも多くの方々が移住しました。

 避難してきた人はまず青森に行き、その後に船で函館へ。さらに函館本線で小樽・札幌・滝川、そして根室本線で新得・帯広・池田など道東方面に向かったとのことです。

 震災同年の9月10日から26日の間に帯広・新得・池田の駅で下車した人数は約750人と記録(北海道公文書館・「東京地方大震災関係」)されていますので、1000人を超える方々が生活の場を求めて北海道に移住されたといい、この中には恐らく埼玉県民も多く含まれているものと思われます。

 さて、2024年度上半期に一万円札が刷新され、その顔になるのが「近代資本主義の父」と言われる渋沢栄一です。

 渋沢は1840(天保11)年に武蔵国榛沢郡(ばんざわぐん)血洗島(ちあらいじま)、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれています。作家・城山三郎がその著書「雄気堂々」で人間・渋沢栄一を生き生きと描き出し、また渋沢著の「論語と算盤」もベストセラーになっています。

 渋沢は多種多様な企業の設立にかかわり、その数は500以上といわれていますが、その中には北海道経済に大きく貢献している「サッポロビール」と「王子製紙」(現王子ホールディングス)が含まれています。

 サッポロビールは1876(明治9)年に「開拓使麦酒製造所」として設立されましたが、1886(明治19)年、いわゆる官有物払下げによって大倉喜八郎率いる大倉財閥が取得。この際、渋沢も出資者の1人として名を連ねています。
 
 一方の王子製紙は1873(明治6)年、輸入に頼っていた洋紙の国産化を企図し、官僚から実業家へと転身した当時の渋沢が中心となって設立されました。

 その後傾いた経営を立て直すため苫小牧村(現苫小牧市)に進出し、1910(明治43)年に操業を開始。豊富な木材資源や支笏湖の電力資源の活用で、同工場は王子製紙の主力工場になっていきます。

 武蔵国(埼玉県)出身の渋沢は多くの雇用を北海道にもたらしたと言えましょう。