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北海道開拓の先覚者達(4)~黒田清隆・榎本武揚~更新日:2013年07月15日

    

 1962年(昭和37年)、私が小樽商科大学に入学した時の学長は加茂儀一先生だった。加茂先生は東京工業大学の教授であり小樽に縁があった訳ではないが、教授会と学生の懇請を受け入れ、1957年(昭和32年)学長を引き受けることとなった。
 加茂先生が決心するに当たって、いたく感動したのが学生達の熱心な招聘活動。学生達は自主的にカンパを募り、旅費を工面したうえ、3名の代表を上京させた。学生の代表達は加茂先生の自宅前でむしろ旗を立て、座り込みを続けながら加茂先生に学長を引き受けて頂くよう懇請したそうだ。
 57年11月、学長就任を引き受けた加茂先生が小樽の駅頭に立つと、学生達はストームで歓迎し、新学長を感激させた。2期8年の任期を終え小樽を去るときも、学生達は大挙して小樽駅に集まり、加茂先生を見送り、「校歌の後には学長を囲んで円陣ストームが駅一杯に広がり一般市民の驚嘆を起こした」(小樽商科大学100年史から)。もちろん、私も参加し、その時の感動は今も覚えている。
 「せっかく小樽に来たのだから、それにふさわしい研究をしよう」。加茂先生が取り組んだのが「榎本武揚」。加茂先生は榎本武揚を「単なる軍人や政治家ではなく、優れた科学者、技術者でもあり、その他かなり広い範囲における高い教養の持ち主」と傾倒を深めていた。その研究成果が60年(昭和35年)に中央公論社から出版された「榎本武揚」で、90年(昭和65年)には中公文庫にもなっている。私も何度となく読み返し、榎本の偉大な足跡に感じ入ったものである。

 NHK大河ドラマ「八重の桜」で今まさに放映されているが、1868年大政奉還がなされ戊辰戦争が勃発。榎本武揚は薩長に対し徹底抗戦すべきであると主張したが、聞き入れられないと、品川に停泊していた幕府所有の軍艦6隻を率い江戸を脱走した。向かった先は蝦夷地箱館。新政府に抵抗を続けていた東北の武士や土方歳三率いる新撰組を吸収し大軍勢となり五稜郭に籠もり、新政府と対峙することとなった。榎本は「蝦夷共和国」を樹立し、欧米の民主主義に倣い選挙を実施し、共和国の「総裁」に選ばれている。

 しかしながら、頼みの軍艦を座礁や新政府の巨艦との海戦で次々に失い、資金も枯渇し榎本軍は劣勢を余儀なくされた。勝敗を決定的にしたのは4月11日の箱館総攻撃で、その時総指揮を執ったのが黒田清隆である。黒田は自ら少数の兵を率い箱館山の背後から奇襲上陸し、榎本軍を混乱に陥れ戦況を決定的なものにした。黒田は箱館病院入院中の榎本軍兵士を見舞い個別に諭したうえ、榎本に書簡及び人を送って降伏を勧告した。これら黒田の適切な対応により、箱館戦争は大混乱を前に平定され五稜郭は無血開城となった。

 降伏後の榎本及びその主要な配下は東京に移送、獄中に入れられ裁きを待つ身となった。旧幕府から軍艦を奪い、新政府軍と交戦したわけで、木戸孝允など新政府の多くは榎本等の死刑を強く主張したが、榎本を救ったのが黒田である。
 榎本はオランダに留学し国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだが、このとき国際海洋法の教典ともいうべき「万国海津全書(自らが書写し数多くの脚注を挿入)」を肌身離さず携えていた。
 降伏を決意した榎本は、世界の財産でもあるこの書物を戦禍から守ろうと、これを黒田に送ったのである。黒田は榎本の非凡な才能を惜しみ、頭を丸めて世を捨てる覚悟で助命に奔走した。朝廷の人々はこれに感動し、ついに恩赦を出し榎本の出獄を認めることとなった。
 島義勇を「情の人」、岩村通俊を「非情の人」と表したが、黒田はまさに「激情の人」と表現していいのではないだろうか。

 1872年(明治5年)、榎本は特赦出獄すると黒田が次官(実質的には最高責任者)を務める開拓使に仕官し、北海道鉱山検査巡回を命じられた。74年(明治7年)には駐露特命全権大使となり「樺太・千島交換条約」を締結することとなった。軍備拡張し北海道への進出をうかがうロシアに対し、樺太を捨てることによって安全保障の枠組を結ばせようとしたのである。
 榎本は黒田の推挙と自らの深い知識並びに非凡な才能で、明治政府の主要な役職を歴任することになる。6つの内閣で逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣等を勤め、おおいに維新後の日本国隆盛に貢献している。
 加茂先生は榎本を「幕末と明治という日本にとっての大きい試練の時代が生んだ一種の万能人」と認めている。榎本は新政府に逆らったうえ、明治政府に仕えた裏切り者とされていたが、加茂先生は榎本を肯定的に評価している。反逆者ということで開拓神社に祀られている37柱に名を連ねてはいないが、北海道の歴史に欠くことの出来ない人物だろう。

 黒田は1887年(明治20年)、第1次伊藤博文内閣の農商務大臣になり、翌88年には第2代総理大臣になっている。黒田は榎本の才能を重用し、榎本は命を救ってくれた黒田に心服するという2人の関係が明治政府の中核で機能することになった。

 黒田が1900年に59才で亡くなったとき、榎本が葬儀委員長を務めている。豪放磊落で、「激情の人」で奇行が耐えなかった黒田の葬儀にあたり、出身の薩摩の人々は葬儀委員長を敬遠したからだとも言われている。真偽の程は定かではないが、最初の妻を斬り殺したとか、商船から岩礁に大砲をぶち放ち誤って1人を殺してしまったとか、酒席で暴れ木戸孝允に取り押さえられ毛布で簀巻きにされたとか、その奇行は枚挙にいとまがない。大変な酒乱であったと言われている(私も自戒しなければならない)。半面、黒田の晩年は一般庶民ともまじわり、にこやかに語りあっといわれ慈愛に満ちた話も多い。黒田はかわいらしさのある「激情の人」であったようだ。

 箱館戦争で敵と味方に分かれて戦った2人は、その関係を縁戚関係でも密なものとした。黒田は長女の梅子を榎本の息子の嫁として送り出し、榎本家は今も続いている。一方、黒田の息子清仲は世継ぎの息子がいなかったため、養子として黒木為禎の三男、清を迎えた。世継ぎとなった清は榎本の孫娘を妻として迎え入れている。
 数年前、東京赤坂のあるお店で10数名の方々と偶然一緒になり、どういうわけか初めての出会いにも関わらず歓談する機会を持つ事ができた。その中心におられたのは、いかにも持って生まれた品格と熱い思いが漂う70代後半の紳士である。その方の名刺を頂戴して驚愕した。名刺には「黒田清揚(お名前を記載しお許し下さい)」と記されている。黒田清隆と榎本武揚の曽孫に当たられる方だ。幕末に敵として戦い、その後日本と北海道の発展に尽くした2人の子供や孫同士が結婚し、それぞれ黒田家と榎本家を継いでいる。
 清揚氏とはその後も何度かお会いしているが、すでに80才を超えておられるでしょう。お年を召しても今なお北海道に対し熱い思いをお持ちになっておられる方だ。

 加茂学長は我々が卒業する前に「とかく学問をする人間は実利に陥りやすい。どんな学問をやっていても実利に走れば世は末になる。原子力の学問も実利に過ぎると原子爆弾で破壊を試みたくなる。経済や商業の学問は元々実利を目標に置いたものだけに、それに対する考え方を一歩誤るとそれこそ末世観に堕することになる。もしそれだけのことが目的であれば敢えて高度な学問をする必要はない。それどころか邪魔にさえなる」との言葉を残して下さった。
バブルやリーマンショックを引き起こした「金融工学」なるものはまさにその典型であろう。

円山公園の池に住む13羽のオシドリの赤ちゃんは、1羽も欠けることなく元気に泳ぎ回っている。
次回は北海道開拓使初代長官の鍋島直正公を取り上げたい。