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Interview

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100万部を堅持、目指すは日本一の地方紙掲載号:2015年9月

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広瀬兼三 北海道新聞社社長

6月の人事で、北海道新聞社社長に同社常務だった広瀬兼三氏が就任した。新聞業界を取り巻く環境が厳しさを増す中、どんな手腕を発揮するのか。広瀬氏に意気込みを聞いた。

記者以外の部署の経験が大きな財産

広瀬兼三氏は函館市出身の62歳。立命館大学経営学部卒。1977年に北海道新聞社入社。函館支社長、取締役編集局長、取締役経営企画局長、常務取締役を経て、15年6月から現職。

――社長就任から3週間が経過しました。

広瀬 村田正敏会長は5年間社長を務めていました。社業と対外的な役割を1人でこなし、とても大変だったことがわかります。同時に北海道新聞が各方面から頼りにされていることを肌で感じています。

村田会長は新聞協会副会長や共同通信社の理事会長などの公職を務めています。今後は村田会長が対外的な役割で、私は社業を中心に取り組んでいきます。

――村田会長から社長をお願いされたときの心境を教えてください。


広瀬
 取締役経営企画局長を1年務めた後、常務に昇格し、局長も併せて務めることになりました。このポジションはある意味、内閣でいえば官房長官のようなもので、当時の村田社長とは毎日会っていました。
新聞業界は右肩上がりの時代ではありません。村田社長のトップとしての苦労も伝わってきました。それでも、先輩たちが築いてきたタスキを次の世代につなぐため、誰かが次の社長をやらなければならない。
村田社長から社長就任の打診を受けた後、悩み抜いて何週間もということはありませんでした。託された以上、承ることが誠実な態度であろうと思いましたね。

――なぜ新聞記者を目指したのですか。


広瀬
 函館市の生まれなので一時、海の男に憧れたこともありました。新聞記者になりたいと志望したのは、大学に入ってからです。
ちょうどその頃、ロッキード事件、ベトナム戦争、中国の文化大革命など、歴史が大きく揺れ動いていました。多少の正義感もありましたが、新聞記者ならそうした歴史的な局面に立ち会えると思いました。当事者ではなくても、追体験ができるのではということです。

――入社後を振り返り、印象に残っている仕事はありますか。


広瀬
 北海道拓殖銀行が経営破綻した「97年11月17日」は忘れることができません。私はその翌年、函館から本社経済部に戻ってきました。破綻後の1年間は激動の時代で、そのときにデスクをやらせてもらいました。「拓銀崩壊」というロングランの連載企画を担当したことが、印象に残っています。

――広瀬社長は販売局に在籍していたこともあり、「ぶんぶんクラブ」の初代事務局長です。


広瀬
 販売局経験者が社長に就任したのは、私が初めてになります。
編集・記者だけではなく、経営企画局、販売局、支社長など、いろいろな経験をさせてもらいました。すべてが自分自身の財産になっていますし、物事をいろいろな角度から見られるようになりました。
新聞社の特徴の1つは人材も含めた多様性です。難しい問題ほど答えは1つだけではありません。世の中はだいたいグレーゾーンで動いています。取材する場合も、そこを考えなければ極端な記事や論調になってしまいます。

私は編集局長時代、「『オールorナッシング』ではいけない。グレーゾーンをしっかり見極めた上で、論を興して、主張しなさい」と言ってきました。これは新聞経営でも大切です。

親子で読んでほしい「まなぶん」

――発行部数の現状をどう分析していますか。

広瀬 部数は新聞社の力の源泉であり、購読料を支払って読んでくださっている方々からの信頼の裏返しでもあります。
記者もいい記事、いい紙面をたくさんの人たちに読んでもらいたいと考えるのは当然です。

かつての部数より落ち込んでいますが、地方紙の中で、全国紙と中日新聞を除いて100万部を超えているのは当社だけです(15年6月時点105万593部。日本ABC協会報告部数)。

これからもミリオンペーパーとして生きていきたい。それが社員及びグループ会社にとって、もっともわかりやすいアイデンティティだからです。
そのために一番必要なのが地域との密着です。密着度において日本一の地方紙を目指します。

われわれは北海道に生かされています。いわば、北海道と運命共同体なのです。北海道の発展なくして当社は存在しえません。

――新しい読者へのアプローチとして、今年3月に「道新こども新聞 週刊まなぶん」(毎週土曜日)を発刊しました。

広瀬 「週刊まなぶん」に関しては、中堅社員が特命チームをつくり検討してきました。

新聞部数減の要因の1つに活字離れがあります。いくらデジタルメディアが進んだとしても、新聞は必要です。子どもたちに活字に触れてもらって、多角的に物事を考える。そういう習慣を身につけてもらいたいと思っています。

「まなぶん」は30代、40代の親世代も一緒に読むことができます。ジャーナリストの池上彰さんの番組ではないですが、大人もわかりやすくニュースを知ることができます。親子で世の中の出来事について会話をしてもらいたいのです。

17年に向けグループ会社の連携強化

――新聞社経営のもう1つの柱である広告についての戦略は。

広瀬 デジタル化、インターネット化で一番影響を受けたのが、新聞の広告かもしれません。景気動向にも大きく左右されます。アベノミクスが地方まで浸透しているかといえば、そうとは言えない状況です。

販売、広告、事業部門で強調しているのは、これからは地域のプロデューサーのような役割をしっかり担いたいということです。
ただ単に企業からの広告を待つだけではなく、いま地域は何を求めているのか。そこに敏感にアンテナを立てて反応し、クライアントと一緒に対処していきます。

当社にはそのための資産はあると思います。事業については道内で年間800件の主催事業をおこなっています。

来年は3度目となる札幌モーターショーが開催されます。この事業も地域のものづくりに貢献しています。前回は大手自動車メーカーに納入している道内の製造会社のコーナーを会場に設けました。それによりメーカーの人たちとビジネスのために出会う場所を提供できました。当社には、こういうノウハウがまだまだあると思います。

――そのためには、さらなるグループ会社との連携も必要ですね。

広瀬 そうです。われわれは15社のグループ会社があります。よくメディアミックスと言われますが、新聞を中心に、社内にはデジタルメディア、出版、グループ内にテレビ、ラジオもあります。

17年には当社が創立75年、UHBが45年、エフエム北海道が35年の各周年を迎えます。そこを目指して自分たちの得意分野を生かしながら、連携を深めていきます。その上で、ふさわしい周年事業を考えていきます。紙面を充実させ、地域密着の事業を展開するには、経営基盤がしっかりしていなければいけません。東京五輪・パラリンピックが開催される20年をメドに、北海道全体の約4割の人口が集中する札幌圏の生産体制を強化します。

地域の体温を感じる〝庶民派〟社長

――具体的な中身を教えてください。

広瀬
 道新総合印刷の札幌圏の輪転機は、札幌市西区宮の沢に札幌工場、北広島市・大曲に本社工場があります。札幌圏2カ所体制は維持しつつ、札幌工場を国道5号線沿いから発寒工業団地に移転、新築します。そして跡地を不動産として有効活用します。
東京五輪を40㌻、24カ面カラー体制で迎えるべく、着実に準備を進めていきます。

――本社社屋の建て替えの話もあります。


広瀬
 本社社屋の大通館は、すでに竣工から約50年が経過しており、老朽化は否めません。本社社屋がある場所は、札幌中心部の商業ゾーンであり、観光ゾーンになっています。そのため、当社単独で建て替えるよりも、周辺施設や行政と相談しながら、北海道の中心部にふさわしい建物を念頭に入れて考えていきます。

まずは本社社屋の建て替えよりも、盤石の印刷体制を整えます。おそらく本社建て替えは20年代に入ってからになると思いますが、その準備として7月から専任の担当者を置きました。

――最後に意気込みをお聞かせください。


広瀬
 新聞社は、大所高所から物事を見ることも大切です。ただ、新聞は誰のためにあるのかというと、庶民のためにある。取材をする記者は偉そうにせず、庶民の目線を持たなければダメなんです。地域の体温を感じないといけません。これが新聞記者、編集の原点であり、先輩たちからも言われてきたことです。

札幌中心部だけが札幌ではありません。それは北海道が札幌だけではないのと同じです。東京なども大都市も地方によって支えられているのです。

今後も業界を取り巻く環境は厳しくなると思います。しかし、われわれは地方新聞だからこそ生き残れると思っています。地域に一番近いからです。地域が何を必要としているのかを、地域のみなさんと一緒に考えていきます。

――お忙しいところ、ありがとうございました。

=ききて/前田圭祐=