2年でアメリカ帰国予定が日本に10年超
――生まれは北海道ですね。
平野 よく「日本語が上手ですね」と言われますが(笑)、一応日本語がベースです。札幌の天使病院で生まれ、小学校に入る直前まで苫小牧に住んでいました。父は日本人、母はアメリカ人です。
――ITの分野に入られたきっかけは。
平野 大学を卒業し、兼松という商社のアメリカの現地法人に入ってからです。
――兼松ではどういう部署に配属になったんですか。
平野 半導体の事業部でした。当時はITバブルが弾ける前で、シリコンバレーは熱病のように沸いてい ました。ITカンパニーのものすごいスピードというか、革新的なアイデアに刺激を受け、こうしたパッションを若いときにどれだけ経験できるか、賭けてみた いという思いが日に日に大きくなりました。そこで2年で商社を辞め、ITの世界に飛び込んだのです。
――最初に入った会社は。
平野 社員数300人くらいのソフトウエア会社でした。入社まもなく「ハイペリオン」というビジネス インテリジェンスソフトウエアの会社に買収されました。当時ハイペリオンには日本に10人くらいの現地法人があり、君は日本人の名前を持っているようだ し、日本語を話せそうだからと、2年という期限付きで日本行きを命じられました。小さい会社ですから、企画からアライアンスから、いろんな経験をさせても らいました。そして2年たったときに「社長をやってほしい」と。
――何歳のとき。
平野 30歳です。5年ほど日本法人の社長を務めました。
――それからマイクロソフト(MS)に移られた。
平野 ハイペリオン時代もMSと一緒にプロジェクトを進めたこともあるんですが、MSの人はマネ ジャーでも役員でも可能性という価値観でものを話すんです。これには軽くショックを受け、同時に魅力を感じました。MSに移る1年前くらいでしょうか。新 しいチャレンジをしたい、次をどうすべきか友人などに相談していたとき、たまたまMSの話があると。それがとんとん拍子に進んで、MSの日本法人に入った んです。
――最初の仕事は。
平野 当時の日本法人の社長だったダレン・ヒューストンの指示で今後3年間の成長戦略を書きました。 その内容はビジネスの本質的なところにインパクトを出せるような展開をどうするかということ。11の成長ポイントを書きました。では、それを実行しろと。 入社5カ月くらいのときにエンタープライズサービス担当の役員になりました。
――日本市場での競争は激しかったのでは。
平野 それはみなさん必死ですよね。お客様がコスト削減をしている中で、そのシェアをどう取るかとい う競争は明確にあります。ビジネスの環境が厳しくなればなるほど当社なり他社なり、お客様も含めて、その会社の持っている特質が浮き彫りになる。そういう 中でMSが自分の持ち味をどれだけ最大限出せるか。すでにPC、OS内にはMSのソフトが稼働している。
そこにプラスアルファをすることによって、もっと深いソリューションが出せるというのが当社の強みです。
昨今「クラウド」というキーワードがありますが、大きな流れの変化がこの時期に重なっているのは偶然ではないと思います。それぞれのテクノロジーと状況 があって、環境がそれを後押しし、加速させる。そのときにそれぞれソリューションを持っている会社がどういったメッセージと対応ができるかというところが 重要です。