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Interview

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“浜育ち”の根性で時代の荒波を乗り越える掲載号:2018年1月

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川崎一好 北海道漁業協同組合連合会代表理事会長
大谷喜一 アインホールディングス社長 

お互い網元の子として生まれ、しかも同い年という北海道漁業協同組合連合会の川崎一好会長と調剤薬局最大手アインホールディングスの大谷喜一社長。歩んできた道は違っても、浜育ちの生い立ちは一緒。何が飛び出すか予測不能の異色対談!

北海野球部と厚岸町との浅からぬ縁

――お二人とも1951年(昭和26年)生まれでまったくの同級生。実家が網元という共通点もあります。

大谷 実は川崎会長が同い年だと知ったのは2016年のことなんです。弊社と農林中央金庫は昔からお付き合いがあって、うちの株もたくさん持ってくれている。農林中金の担当者と話している時、たまたま川崎会長の話が出たんです。聞くと1951年生まれらしい。それは一度お会いしたいねと言ったところ、農林中金さんのほうでセッティングしてくれたんです。

川崎 農林中金さんから連絡があって、私もびっくりした。大谷社長と言えば名門・北海高校野球部のOB会長でもある。16年は北海高校が夏の甲子園で準優勝した年です。その準優勝メンバーには、わが厚岸出身の選手が2人もいた。しかも、監督の平川敦さんも厚岸とは浅からぬ縁がある。そんなこんなで大谷社長にはお礼も言いたいし、ぜひお会いしたいと伝えました。

大谷 そう、準優勝メンバーが厚岸から2人も出ていたんです。キャッチャーの佐藤大雅とレフトの布施太聖。いずれも当時2年生です。さらに平川監督は親がNTTの職員で転勤族だった。それで中学を厚岸で過ごしているんです。そんな縁もあって、厚岸の中学から北海高校に来てくれる選手は少なくありません。

――その準優勝メンバー2人の実家は漁師ですか。

川崎 佐藤君の親は漁師。布施君のほうは、おじいさんが漁業組合に勤めていました。1万人くらいの町だから、すぐにわかります。

大谷 道内で一番盛り上がっていたのは厚岸だったんじゃないですか。監督と選手2人。しかも佐藤は4番でしたから。

――大谷さんのご出身はオホーツク海側の宗谷管内浜頓別町ですね。

川崎 頓別漁協の組合長は「大谷」さんですね。

大谷 僕の又従兄弟になります。いま僕の実家は母親が人を使って毛ガニ漁をやっています。

――大谷さんが漁業を継いでいれば何代目に。

大谷 祖父の代からだから3代目ですね。

川崎 考えられないんですよ。漁業者が調剤薬局の最大手になるなんて。私からすると「なんで漁師をやらなかったのか」って。

大谷 すみません。父は祖父から「お前は漁師だ」と言われて漁師になっています。でも父は僕に「やれ」とは言わなかった。考えてみると父は漁師をやりたくなかったのかもしれません。

そもそもは祖父が漁業を始めたんです。最初は青森からやってきて町中で商店を営んでいた。でも、どうしても漁師をやりたいといって商店をたたんだ。父は1926年(大正15年)の生まれなんですが、その頃はまだ、祖父は漁師をやっていなかったと思います。

――当時から毛ガニ漁を。

大谷 そうです。それなりにもうかったんだと思います。父は昭和初期に、浜頓別から札幌の旧制北海中学に入学しているんですから“お坊ちゃん”もいいところ。きょうだいも女ばかりで、息子は父一人でした。きっと大事に大事に育てられたのだと思います。

孫に漁師の楽しさを教えている最中

――川崎さんは何代目に。

川崎 4代目ですね。曽祖父が1870年(明治3年)に岩手から北海道に渡った。コンブをとるために厚岸に入ったようです。そこからずっと厚岸に住みついて、いまは息子が漁師をやっていますから、彼が5代目になります。

――川崎さんは漁師を継ぐのに抵抗はなかった。

川崎 子どもの頃から漠然と大きくなれば漁師になるんだろうなと思ってましたからね。父は、私が16歳のときに亡くなりました。4人きょうだいなんですが男は私一人。死ぬ間際、父は私を呼んで、家族はみんな泣くかもしれないが、お前は泣くなと。あとはみんなお前に任せるからと言って死んだんです。もう継ぐしかありません。

大谷 うちも父親は早くに亡くなっていて、僕が25歳、東京でサラリーマンをやっている時です。その後、母親が86歳の現在に至るまで、ずっと家業を守っています。僕には弟もいるんですが、弟も地元を離れ漁業は継がなかった。いずれにせよ浜頓別に母一人です。僕も北海道に住んだほうがいいなと思い、28歳の時に独立して札幌で薬局を始めました。もともと事業をやろうと思っていましたから。

――漁師を継がないことについて、周りから何か言われませんでしたか。

大谷 やはり叔母などから「帰ってきてお前がやれ」と言われました。でも、僕は薬剤師で“ちょっと、いまさらできないな”というのが正直なところでした。

川崎 でも、お母さんが86歳で現役と聞いてびっくりしましたよ。北海道漁連としても誇りです。

大谷 本当に元気ですよ。いまでも僕にガンガン文句を言いますからね。この対談は母が一番喜ぶんじゃないかな。何たって息子が漁連のトップとツーショットで出るわけですから(笑)。

――川崎さんのところは息子さんへの継承がスムーズにいったんですか。

川崎 面と向かって話をしたことはありません。息子は大学を卒業すると、厚岸に帰って船に乗る、漁師をやるからと、向こうから言ってきました。

大谷 それはうれしかったでしょう。

川崎 そうですね。息子はいまサンマ漁の船頭をやっています。サンマ漁に出ると数日は港に戻らない。その間の食事は船上でつくるわけです。結婚をしても厨房に立つのは苦にならない。漁から帰ってくると自らサンマを刺身にして「親父、一杯やるぞ」って。

大谷 船に乗るとみんな自分たちでやりますものね。

川崎 いまは孫に漁師の楽しさを教えています。

大谷 もう6代目を育てている!お孫さんにも漁師をやってほしいな。

川崎 孫は4月から小学生になるんですが、鉄道が大好き。これはまずいと。まずは金魚を飼って、魚に慣れさせるところから始め、用事がなくても港に連れ出して父親の仕事を見せる。船にも乗せたりしています。

大谷 楽しみですね。

川崎 いま後継者問題が叫ばれていますが、少子高齢化で漁師が減っていくのは仕方ないところもあります。でも、残っている人たちは、漁師はやりがいのある仕事で、自信を持って地域で暮らしている。厚岸も浜頓別も小さいまちですよ。でも、そこで漁業がなくなると、そのまち自体が消滅してしまいます。だから地域のためにも漁業を絶対になくしてはいけない。

大谷 産業がなくなったまちはみじめですからね。

川崎 僕は町長なんかにもよく言うんです。産業だけはつぶさないようにしてくれと。魚をどう効率よくとり、またどう増やしていくのか、これはわれわれが一生懸命やる。一方で、港などの整備は行政にしかできないから、そっちは頼むと。ここがうまく連携していければ、1万人の人口が5000人になってもここで暮らしていけるし、子どもたちに未来を託していけるという話をするんです。

先んじている漁業の「働き方改革」

大谷 報道などもそうですが、農業に比べて水産業の話はあまり出てこない気がします。

川崎 生産額が違うし、まちの数も違いますからね。

大谷 でも水産業はものすごく重要ですよ。もともと日本は海に囲まれた水産の国。国土の面積でいうと日本は世界で60番目くらいですよ。ところが排他的経済水域でみると……。

川崎 世界で6番目といわれていますね。

大谷 そう考えると、日本という国はとても広くて、水産資源も豊富。日本の海には4400を超える魚類がいると聞いたことがあります。本当に豊かな海に囲まれているんですね。でも、日本の漁師の数はどんどん減っている。漁業の環境は昔と全然違うのに、非常に大変だというイメージがあるのではないでしょうか。

川崎 漁業者は昔から見ると裕福になっていますよ。昔は暗いうちから働いて、暗くなるまで終わらない。“3K”どころか“5K”くらいだった。これじゃあ息子も残らないし、嫁も来ない。最近は「働き方改革」が話題ですが、漁業も取り組みを始めています。

大谷 きちんと休みも取りますよね。昔は時化た日だけでした。船だって「板子一枚下は地獄」なんて言われていましたが、いまはかなり安全な船で、しかも速い。僕が子どもの頃は、夜中の1時とか2時にポンポン船が出て行って、帰ってくるのは夕方でした。

川崎 いまは、定置網などの漁業では、朝明るくなってから港を出て、昼前には帰ってくることもありますからね。

大谷 時間で働く、ある意味サラリーマンですよね。

川崎 そうですね。ものすごく働く環境はよくなっています。漁師をやりたい人は、どんどん漁連に言ってきてほしい。地域の産業を守るために、地域に住み続けられるために、できる限りのサポートをします。

=ききて/鈴木正紀=