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Interview

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感動は人を動かす最良のエネルギーだ掲載号:2013年3月

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掘 威夫 ホリプロファウンダー最高顧問

 山口百恵、和田アキ子など数々の国民的タレントを世に送り出してきたホリプロ。2010年に創業50周年を迎えた芸能プロダクションの老舗だ。その創業者で現在最高顧問を務める堀威夫氏にエンターテインメントの未来を聞いた。

――現在、堀さんの肩書は「最高顧問」ですが、社長を退かれたのが早かったですね。
堀 私は40代前半から「社長定年50歳」を公言していました。51歳で社長を譲って財務と新規事業 だけを担当する会長になった。60歳の還暦のときは「今日から違う自分になる」と宣言し、女房以外はみんな取り替えました(笑)。車での通勤をやめ、会社 まで徒歩で通えるところに引っ越したり、ゴルフのスイングを変えたり。その後、70歳まで会長を務め、77歳のときに最高顧問になりました。
――ホリプロといえば元日本ハムファイターズの岩本勉さんが所属しています。
堀 そうですね。あと北海道に縁があるといえば、82年の第7回タレントスカウトキャラバンで優勝し、翌年「ジェームス・ディーンみたいな女の子」でデビューした大沢逸美でしょうか。札幌の出身です。
――昨年ホリプロは、堀さんが社長を務める「青春社」が公開買付を実施し、東京証券取引所1部の上場を廃止しました。
堀 所期の目的は達成したということです。かつて芸能プロダクションといえば、どうしても世間から怪 しげな会社と見られがちでした。私は高校時代からバンドを組み、大学ではプロのウエスタンバンド「ワゴン・マスターズ」にギタリストとして参加。卒業時の 1956年は〝なべ底不況〟で就職できず、結局自ら「堀威夫とスイングウエスト」を結成しました。たまたま人気バンドになりましたが、当時は所属事務所な どという概念のない時代でしたから、私がプレイングマネジャーとして切り盛りしていました。59年に「東洋企画」というプロダクションを設立するのです が、私はまだ27歳。社長という肩書もおこがましいので、知人に名目だけの社長をお願いし、私は専務に就任しました。60年、ステージ活動から引退し裏方 に専任。ところが商法のルールをまったく知らない私は、その知人に会社を乗っ取られてしまったのです。
――そこでホリプロの前身「堀プロダクション」を設立するんですね。
堀 今度は自分が社長になることに何の躊躇もありませんでした。実は、私がこの仕事を社会に認知させ なければと強く考えるようになったきっかけがあります。長男の私立小学校入学試験の際、親への面接で職業を聞かれたとき、もちろん私は「芸能プロダクショ ンです」と答えました。すると面接官の顔色が微妙に変わるのがわかりました。
将来、社員にこんな思いはさせたくない。同時に社会に認知されなければこの仕事の将来はおぼつかないと直感しました。芸能プロにとっての財産は人だけな のに、このままでは優秀な人材を採用できない。そこで出した答えが株式上場です。具体的な方法論はこれしか考えられませんでした。
――66年ということは34歳のときですね。
i2堀 このときはまだ本当にできるとは思っていないんですよ。ただ思うことは勝手です。あるとき某週刊 誌に「ホリプロが上場を視野」みたいな、音楽記者がアルバイトで書いた記事が載ったんです。それを読んだ野村證券の新規公開担当の人が訪ねてきて、本当に やる気なのかと。そこから野村證券にも手伝っていただいて上場準備がスタートしました。われわれの商売は、もともと管理部門が弱い。応募してくる人は、や はり現場志向の人が多いので、管理部門に配属すると、彼らはそこで死んでしまう。上場に耐え得る会社にするために、よそから人材を入れることで管理部門の 強化にも役立つ。そんな狙いもありました。本当に3年間、大変でした。
――実際に株式公開をされたのは、すでに会長だった89年でしたね。
堀 上場準備の最中に会長になりました。だいたい「芸能プロは一代限りの仕事」というのが業界の通説。私はそうした通説やジンクスみたいなものを壊してきたという自負があります。
会社を存続させるために、早めに社長を辞めて、違う名字の人間を抜擢する。いろいろなことを繰り返してきました。
――公開時はマスコミにも大きく取り扱われ、話題になりました。
堀 そのときに感じたのが、これは〝犬が人間を噛んだ出来事〟ではなく〝人間が犬を噛んだ出来事〟なんだということです。非常にイレギュラーなことをやってしまったと、あらためて思い知らされましたよ。
当時タレントにはもちろん若い社員にも言ったのは「夢に見られるものは実現する」ということです。結局、思い続けるということです。あきらめないという一言に尽きる。あきらめないでいれば、必ず実現する確率は高まるわけですから。
――その後、97年に東証2部、2002年に東証1部に指定替え。
堀 ただ、われわれの商売は設備投資がそれほどありません。仮に資金が必要になったとしても、いまな らマーケットからの調達より銀行金利のほうが安い。何のために何億円ものコストをかけて上場しているのか。当初の目的は芸能プロという仕事を社会に認知し てもらうことでしたから、それはある程度達成できた。であるならば後輩たちに意味のない上場コストの負担を軽減させよう。それが今回のTOBの目的です。

若気の至りこそ最大の武器

――ウエスタンカーニバル、グループサウンズ(GS)、中3トリオ、タレントスカウトキャラバン等々、さまざまなブームを仕掛けてきた堀さんから見て、いまのAKB現象をどうとらえていますか。
堀 あのビジネスモデルは大したもんですよ。少なくとも自らタレントを育成している人間からは、あの発想は出てこない。
――というのは。
堀 彼女たちの所属事務所はバラバラです。うちにも板野友美とか7、8人いますが、そうやって本来商売敵のものを束ねて売る。あれは何もやっていない秋元康だからできること。負け惜しみでも何でもなく、あのビジネスモデルをつくり上げたのはすごいと思う。
ただ1つ、表面張力が破裂するかしないか、この見極めはブームのとき一番難しい。CD1枚買って選挙権とか、じゃんけんでセンターを決めるとか、いまは表面張力の範囲内でおさまっているけど、1つ何かあれば社会的非難を浴びることになります。
私はGSブームのときにそう思いました。若い女の子が行列しているところに地元の教育委員会とか学校の先生がやってきて連れて帰るわけですよ。これは行き 過ぎたと。どんなブームをつくっても世の中を敵に回したのではダメなんだということを痛いほど教わり、撤収の準備に入りました。
――堀さんがエンターテインメントビジネスを続けてきた原動力は、見る人に感動を与えたいということだったのでしょうか。
堀 感 動を人に与えるなんて分量は持っていません。まずは送り手である自分が感動することなんです。感動は人間を動かす最も良質なエネルギーです。言葉は不適切 かもしれませんが、自分が狂わなくて人を狂わすことなんてできません。「若気の至り」という言葉があります。日本ではネガティブな意味でつかわれることが 多いのですが、これこそがものすごいエネルギーになります。若さゆえの破天荒さ。火事場のバカ力も生まれてくる。しかし、一定の年齢にきてしまうと、世の 中をワケ知りになってしまって、狂うことはできなくなってしまう。いまの私に「若気の至り」はできません。

青春を読んで元気を出した

――若い頃は狂っていましたか。
堀 はい。象徴的なのは「ザ・スパイダース」を売り出したとき。はじめは全然売れませんでした。だから一発逆転を賭けてアメリカでデビューさせようとしたんで す。当時1ドル360円の時代。タクシーに乗ってもすごく経費がかかる。アメリカ人に「なんで日本で一番にならないやつをつれて来るんだ」と言われました が、とにかくポップスはアメリカで制覇しないといけないと思い込んでいた。プロモーションツアーをやり、レコードも出しました。見事に失敗です。帰りにサ ンフランシスコでサイケデリック音楽というのがはやっていると聞いたので、それを見て帰ろうということになった。確かジェファーソン・エアプレインだった と思います。それを見て、これをやろうと。帰国して早速つくったのが「ザ・モップス」です。転んでもただでは起きない(笑)。
――堀さんは今年80歳ということですが、まったく年齢を感じさせません。
堀 も う40年くらい前ですが、私はある詩の存在を知りました。アメリカのサミュエル・ウルマンという詩人が書いた「青春」という詩には、隠れたファンがたくさ んいると。たとえば中曽根康弘、大平正芳、あるいは連合国軍最高司令長官のダグラス・マッカーサー。どんな詩なのか読みたくて一生懸命探しました。国立国 会図書館でも見つからない。でも、ほしがっていると情報は集まるものです。ある人が戦後間もなくの「リーダーズ・ダイジェスト」に載っていたその詩をコ ピーして送ってくれました。縷々書かれている中で私が一番胸打たれたのは「年を重ねただけでは人は老いない、理想を捨てたときに老いが始まる」というくだ りです。以前は縮小コピーして定期入れに入れ、つらいなあと思うときにそれを読みました。すると元気が出る。わが社の各所にこの詩が掲げられています。〝青春病患者〟と言われるくらい、私はこの詩の大ファンなんです。

=ききて/鈴木正紀=