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Interview

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デビュー15周年、紅白初出場、北海道……
“演歌界の貴公子”山内惠介が
すべてを語る
掲載号:2016年2月

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山内惠介 演歌歌手

 いま、演歌界にマダムたちのハートをわしづかみにする歌手がいる。2015年末のNHK紅白歌合戦に初出場した山内惠介さんだ。山内さんは道内のご当地ソングを何曲も発売し、「北海道は“第2の故郷”」と話す。そんな“演歌界の貴公子”の魅力に迫った。(取材日=12月12日)

母との電話は言葉にならず涙、涙…

――NHK紅白歌合戦への初出場、おめでとうございます。吉報をどのような形で知ったのですか。

山内 紅白出場歌手発表の11月26日、僕は東京都内でレコーディング中でした。翌日は岡山でコンサートがあるので、新幹線で前乗りする予定だったんです。

そうしたら、NHKのカメラクルーが突然スタジオに入ってきて「おめでとうございます」と。

――その瞬間、どんな気持ちでしたか。

山内 NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」でいうなら、「びっくりぽん!」です(笑)。言葉もでず、一瞬、時がとまった感じで、現実を受け止めるまで時間がかかりました。

――恩師で作曲家の水森英夫さんも一緒にいたそうですね。

山内 恩師がいていまの自分があるので、水森先生と一緒に吉報を聞けたことは、とても幸せでした。

NHKの方に「お母様に電話しないのですか?」と言われ、お言葉に甘えて電話をしました。母は「よかったねぇ~」と歓喜していましたが、僕は母が電話に出たら言葉にならず、ただただ泣いていました。

――2015年はデビュー15周年という節目の年でした。

山内 とても忙しくさせていただきました。「演歌」は演ずるに歌と書きますが、ここ数年は「ご縁の歌」だと思っています。人と人の出会いは、縁がなければかないません。

ファンのみなさんとのつながり、北海道、故郷、そして歌とのつながりを、すごく実感した年でした。

――15周年記念曲として、2月に「スポットライト」が発売されました。

山内 この歌は演歌というかムード歌謡という感じでしょうか。歌謡曲というのはジャンルが広くて、その中に演歌やフォークソングも含まれます。
歌謡曲がよく流れていた頃、僕はいい時代だったと思いますね。平成になって27年、昭和は遠くなりにけりです。歌謡曲を愛する団塊世代の方々に、この曲を聴いていただき、青春を思い出し、若返ってほしいんです。

この曲を書いた喜多條忠先生は、かぐや姫さんに「神田川」を提供されています。誰もが知る昭和を代表する名曲ですよね。

神田川は、あの時代に刺激を与えて、喜多條先生はその後に都はるみさんの「北の宿から」も作詞されています。

僕は14年に入り、もっともっと注目されたい。そしてスポットライトを浴びられるような歌手になりたいと思っていました。スポットライトというタイトル、歌詞をみたとき、ぜひ歌わせてもらいたいと熱望しました。

神田川が誕生したのは42年前で、喜多條先生はスポットライトを“平成の神田川”とおっしゃっています。こんなに光栄なことはありません。こうした歌との出会いも、ご縁、タイミングです。自分の青春を思い出しながら、客観的に歌える曲なんです。

月をスポットライト代わりに練習

――山内さんは17歳のとき、「ぼくはエンカな高校生」をキャッチフレーズにデビューしました。

山内 高校1年生のとき、おじが勝手に応募した歌謡大会に出場し、水森先生に出会うのですが、本当は作曲家の中山大三郎先生を迎えて開かれる予定でした。

中山先生は島倉千代子さんの「人生いろいろ」や天童よしみさんの「珍島物語」を作曲された方です。

その中山先生のピンチヒッターとして水森先生が来られたのです。それもいま思うとご縁ですよね。

そこでスカウトされてデビューまで、僕はトントン拍子でした。00年に上京して、01年春にデビューしました。そこまで苦労がほとんどないんです。夢というのは、かないだしたらこんなにうまく進むのかと思いました。このままスターになって、七色のスポットライトを浴びられると。でも、その考えが甘かったんですよね。

――その後、鳴かず飛ばずという苦しい時代が続きました。

山内 よく、人生にムダなことは何ひとつないと言うじゃないですか。あるいは、近道より遠回りしたほうがいいと。当時、そういうことを先輩方から言われても、近道のほうがいいと思ったり、ムダなことはあると考えていました。

義理人情みたいなことを、いまいち理解していませんでした。焦ったり、自分を見失ったりしていると、まわりも信頼してくれず、押し上げてもらえません。

僕の青春は20代前半にあります。近所の公園に行っては、月明かりをスポットライト代わりに、夜な夜な歌の練習をしていました。そんなとき、一筋の流れ星が流れるんです。「早く立派な歌い手になれるように」「大ヒット曲が出ますように」と、空を見上げては祈っていたものです。

若さというのは武器にもなりますが、不器用な一面もあります。言葉でうまく表現できなかったり、恋愛や夢も両立できない。そうやってもがくことは、誰にでもあるんじゃないでしょうか。

僕もこれまで、どこか青春にフタをしてきた面がありました。でも、このままではダメなんですよね。いいことも、悪いことも、フタを開けた状態で、歌を聴いていただく。これが僕の人生なんですよと。「スポットライト」のような歌にめぐり合えて本当によかったと思っています。

胸を張って“第2の故郷”と言える

――そんな厳しい時代を支えてくれたのは、ファンの存在でした。

山内 そうですね。ファンの方々の応援がなければ、間違いなく歌って来られなかったと思います。

ファンのお一人おひとりが、山内惠介という存在を大きくしてくれて、輝かせてくれます。

僕はデビューした頃からキャンペーンを全国でやらせていただき、会場に来られた方々と握手を交わしてきました。そのときに二言、三言話すのですが、握手をしたときに、伝わるものがすごくあります。

年齢を重ねれば重ねるほど、握手から感じるものが大きくなっている気がします。手を握ることで「頑張っているのはわかっている」というように、無言の応援をされている気がします。

――とくに北海道は、山内さんにとって思い入れが深いのではないでしょうか。

山内 21歳の04年からSTVラジオで「山内惠介の歌一本勝負」という番組を持たせていただいています。そして北海道の曲として初めていただいたのが、05年の「流氷鳴き」です。その後、「風蓮湖」や「釧路空港」と続いていきます。

08年からはSTVのテレビにも、リポーターとして出演させていただき、ぶらり旅ということで、全道を訪問させていただきました。僕が初めてコンサートを開いたのも、札幌の道新ホールです。年間数えたら、多いときは80日くらい北海道に足を運んだこともありました。

風蓮湖がある根室の「味覚観光大使」や「釧路空港宣伝特使」などにも就任しました。とくに「釧路空港」という歌を3年前にリリースしたとき、市長をはじめ町をあげて僕を歓迎してくれました。

故郷は当然ですが、自分に返る場所がもう1つできたんだなと。そこには血のつながりもないわけです。その頃から、目には見えない、ご縁、義理人情を感じられるようになりました。

そんな応援になんとか報いたいなという思いが年々強くなり、いまでは北海道が“第2の故郷”と、胸を張って言えます。

コンサートでは必ず北海道の曲のコーナーがあります。そのときが一番生き生きしているような気がします。それは自分が見てきた風景を届けられるからです。

以前、「あなたは福岡の出身でよかったね。道産子ではない人が北海道を歌うから、そこには旅情や風情が生まれる。故郷の歌にはならないから、伝わり方が違う」と言われたことがありました。「なるほど」と思いましたね。

北海道のみなさんが山内惠介を温かく迎え入れてくださって、そして応援していただいているからこそ、僕は胸を張って、北海道以外のところでも頑張れます。帰れる場所があると、人間はまた1つ強くなるんじゃないかと。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

ファンがホッとできるコンサートに

――道内で発売中の「スポットライト」のカップリングも「夕張川から」というご当地ソングです。

山内 いままでの僕になかったタイプで、こんなに男らしい、骨太な歌はありません。作詞していただいた奥山英明さんには、3年ほど前におすし屋さんで偶然出会ったんです。僕が店の奥のカウンターにいて、奥山さんが僕に気づいて、声をかけてくださいました。

すし屋は「一流の社交場である」と言うんですよね。カウンターしかなくて、そこで隣り合わせになった人たちと話が弾む。みなさん大将を見ているんですけど、ふと横を見たときに出会いがあるんですよね。

奥山さんも夕張市と親しくされているので、何か歌でスポットライトを当てたいと。そのときにこの歌を書いてくださったんです。

――6月には道内14都市(計30公演)をまわるコンサートツアーが予定されています。

山内 もし北海道に劇場があるならば、1カ月公演と同じですよね。
僕のステージは、まるで故郷に帰って来たかのような、ホッとする場所であり続けたいと思います。肩を張らずにアットホームな気持ちで聴いていただけるように心がけています。演歌、歌謡曲には、安心感という魅力があります。ファンのみなさんと道内を一緒に旅しているようなコンサートになればいいですね。

――北海道で気に入っている景色はありますか。

山内 オホーツク海が好きです。僕は22、23歳の頃、冬のオホーツク海を初めて見ました。歌の道にも迷いがでてきていたときで、網走に着いた夜に海に向かいました。目がだんだん慣れてくると、白い流氷が浮かび上がってきます。耳を澄ますとまるで生きているかのように、「ブ~ン」という流氷同士がぶつかり、こすれる音が聞こえてくるのです。

翌朝はいいお天気で、真っ青な空に白のコントラストがきれいでした。海にはたどる道なきなんですが、流氷があることで、どこまでも進んでいけるように感じられました。自分なんてまだまだちっぽけな存在で、もっと大きな人間になり、生きなければいけないと。気持ちを新たにしたことを覚えています。

再び紅白に出場できるよう頑張る

――“演歌界の貴公子”と呼ばれていますね。

山内 大変光栄ですし、そう言われることで、なるべくきちんとしていなければいけないと思います。日々の積み重ねなので、食べるものにも気をつけています。

あんまり太りすぎてはいけないので、毎日体重計には乗っています。朝お風呂上がりに落ち着いたとき、習慣として量っています。

――いま32歳ですが、結婚については。

山内 水森先生からは「40歳までは歌の道に精進しなさい。一番いい歌を歌える時だから」と言われています。昔は結婚は35歳くらいまでに、と言っていたのですが、どんどん延びてしまって(笑)。
僕自身、紅白にも出場させていただき、本当のスタートラインに立ったと思っています。脇目をふっている段階ではないのかなと。僕は歌の道で生きると故郷を出てきました。何かを得るには何かを捨てなければならないですよね。結婚ができるタイミングはいつか来るんじゃないですか。

――どんな女性がタイプですか。

山内 そうですね……。強い人かな。でも、強すぎてもキツイですよね。料理が上手な人がいいですね。ちゃんと家庭料理をつくれる人。別にグラタンとかなんて言わないので(笑)。ご飯、みそ汁、煮物とか。僕は九州男児なので、しっかりした女性がいいです。

――休日は何をして過ごしているのですか。

山内 よく映画館に行ったりします。洋画よりも邦画が好きで、最近見たのは小林聡美さん主演の「犬に名前をつける日」です。東日本大震災が起きて、飼われていたイヌがそのまま放置されている。それを保護するドキュメンタリー映画でした。

イヌが大好きで、いまも柴犬2匹と北海道犬1匹を飼っています。北海道犬は夏の間、毎日ベロを出して暑そうにしていて。早く北海道に戻してあげないといけないかな。

映画にはいろいろな景色が登場します。歌と一緒で季節も感じることができ、たとえば落ち葉を踏んだときの音なども、普段よりリアルに聞こえます。そういう音が頭をクリアにしてくれるんです。日常生活も気をつけて、音に敏感になり、研ぎ澄ましておきたいなと思っています。

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紅白歌合戦終了後、山内さんは本誌に次のようなコメントを寄せてくれた。
「紅白歌合戦に初出場させていただいて、本当に幸せでした。この喜びを胸に、またこのステージでスポットライトを浴びることができるように頑張りたいと思っています。この場をお借りして、紅白への道にご尽力して下さった皆様、心より感謝申し上げます。ありがとうございました」

=ききて/前田=