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Interview

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システム構築の基本は機械ではなく人と向き合うこと掲載号:2009年8月

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秋光 実 日本アクセス副社長

(あきみつ・みのる)1950年10月3日生。札幌市出身。73年小樽商科大学商学部管理科学科卒。伊藤忠商事入社、情報システム室配属。92年伊藤忠インターナショナル会社(ニューヨーク)出向。98年伊藤忠商事繊維情報企画部長。2000年同IT企画部長。03年同執行役員。06年同常務執行役員。07年日本アクセス入社。08年同副社長(社長補佐、職能管掌兼任)
大手商社伊藤忠商事のシステム開発を、入社以来一貫して手がけてきた秋光実氏。IT部門は会社経営や現場の重要なシステムに関与している。単なるコンピューターのスペシャリストというだけでなく、会社経営を判断する総合的な力を身につけるべきだと説く。

「私は秋光君の言うことを信じる」

――小樽商大では、漫画「天才柳沢教授の生活」のモデルにもなった古瀬大六先生の薫陶を受けているんですね。
秋光 その当時、古瀬先生は横浜国立大との掛け持ちでした。僕が4年のときには講義はもたずゼミだけの指導でした。
――ゼミで基本的なところは鍛えられていたのでは。
秋光 先生は計量経済学出身で、ITだけでなく経営学、人間工学など幅広い知識をお持ちで勉強になりました。でもゼロと1の世界は自分に合わないと思い、商社にいったわけです。
――ところが情報システム室に配属になった。
秋光 小樽商大から採るのは管理系が多く、僕なんか体も小さいし、見るからに管理系と思われたんでしょう。自分では営業系だと思うけど。商社に来る人間なんて、よく言えば「融通の利く人」、悪く言えば「いい加減な人」(笑)。伊藤忠に来るようなタイプは営業系ばかりですよ。一方で、会社も70年代に入ってシステムに力を入れていました。商社は当時、理工系からの採用というのは非常に少なかった。マネジメント・サイエンスをかじっている人間などはもっと少ない。そもそも文系でそういう学科があったのは小樽商大と神戸商大くらいでした。
――当時は大きなソフトウエア会社もほとんどなかったので、大企業は自前でシステム開発していたんですね。
秋光 1973年の入社から79年まで、アセンブラーや自社製マクロ言語でプログラムを200本くらい書きました。その後はロンドンに1年半ほど駐在。やはりシステム関係でした。われわれがやっている業務用のアプリケーションというものは、基本は機械と向き合うのではなくて、人と向き合って、何をやっているのか、それをどう改善していったらいいのか、そっちのほうがポイントです。
――帰国後は。
秋光 自動車輸出関係の大規模なシステム開発のプロマネをしていたのですが、83年ごろ急きょオフィス・オートメーション(OA)をやるよう言われた。オフィスにもPCという時代の流れでしたから。ところが情報システム部隊というのは自分たちでつくることにプライドがあったのでOAに見向きもしない。そこでOA専任組織をつくるべきだと提案したら承認されたので、自ら新設組織に出てPC導入から社員教育までやりました。
――アメリカにも赴任された。
秋光 92年からニューヨークに行きました。当時はまだメーンフレーム中心でPCは1人1台ではなく、LANも部分的にあるくらいで、Eメールはもちろんありません。僕がアメリカに送り込まれたのは、システムをそろそろ考えなければならないからということ。ところがアメリカ法人のトップ(韓国系米国人)に言われたことは「君が日本のシステムから来た秋光か。根本的に日本はDP(データ・プロセシング)の考え方が間違っている。ITの使い方はもっと幅広く、いろんなことがある。何年いるのかわからないけれど、アメリカの進んだ考え方をよく勉強して帰りなさい」なんて言われてね。40歳過ぎて勉強に来たのかなあと困り果てました。
半年後、そのトップにアメリカ法人の現状と問題点を指摘して、自分なりの抜本的改革案を示したところ「いままでITやっている人の中で、君ほどわかりやすい説明をしてくれた人はいない。私は君の言うことを信じる。予算はいくら使ってもいいから思い切って全部やってくれ」と言われました。
――すごい話ですね。
秋光 ちょっと言い過ぎたと思ったんですが、そう言われたらやらざるを得なくなって6年いました。それでSAPを導入することになった。SAPの本格的導入は商社で一番早かった。

丹羽宇一郎社長に 雪印再建を直談判

――帰国が98年。
秋光 大阪の繊維部門に行き、2000年に東京に戻ってIT企画部長。 03年に執行役員になるんですが、役員になると周囲の見方も変わります。IT の長というだけでは、IT部門だからそう言っていると思われがちですが、役員になると会社の経営を任されている1人として発言しているという見方をしてく れる。そもそもIT部門は会社経営や現場の重要なシステムに関与してきている訳ですから、単なるコンピューターのスペシャリストではなく、会社経営を判断 する総合的な力を身につけなければなりません。
――日本アクセスへは。
秋光 集団食中毒事件があって雪印乳業が存亡の危機にあったとき、伊藤忠が資本参加するという話も あったんです。僕は50歳を超えるまで脇目もふらず伊藤忠のシステム開発を頑張ってきた。ところが振り返ってみると拓銀がだめ、雪印がだめ、北海道は何を やっているんだと。それで僕は当時の丹羽宇一郎社長にメールを送ったんです。自分は北海道の大地に育てられながら、何の恩返しもせずに自分の好き勝手やっ てきた。いま故郷が苦境にある。それは自分にも責任がある、何とか北海道の役に立ちたい。自分は北海道の人間。変な商社マンが乗り込んできたということで はなく、道産子としてみんなと汗をかいて頑張ることができる。だから自分を雪印に行かせてくれと。
そうしたら丹羽さんから「ありがとう。そのときが来たらぜひ頼む」と返信が来ました。結局、伊藤忠が雪印に人材を送り込むことはなかったんですが、雪印 アクセスを買うことで資金的に支援し、西野商事と合併して新生・日本アクセスになったところで、次の展開のために頼むということになりました。
――丹羽さんはメールのことを覚えていて、このタイミングで行ってこいと。
秋光 そうですね。僕にとってもよかった。うちは今でも仕入れ先の一番は雪印ですし、北海道の人間が本当に多いんですよ。

=ききて/構成鈴木=