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Interview

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「最大たるより最良たれ」の精神を
堅持し続ける
掲載号:2017年11月

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渡邉光一郎 第一生命保険会長

今年は第一生命保険が北海道で営業を始めて100年。そんな節目の年に会長に就任したのが渡邉光一郎氏だ。相互会社から株式会社へと大きく体制を変えて7年。北海道市場をどのようにとらえているのかズバリ聞く。

日当たりの支払い額は約50億円

――この4月に社長から会長に就任されました。

渡邉 9月1日に新社長の就任披露パーティーも終わり、一区切りついたところです。

当社は今年で創業115年。パーティーでは歴史を振り返る映像を流しました。これまでに私を含め新社長の稲垣精二まで13人の社長が誕生しています。

こうしてあらためて振り返ってみますと、まさに時代がもっともふさわしい経営者を選んできているのだと感じました。

――渡邉さんは第一生命が相互会社から株式会社に変わったときの社長ですね。

渡邉 避けられない生産年齢人口の減少、そのただ中にあって当社が持続的な成長を遂げるためには、大胆な経営革新が必要との判断から、2010年4月1日に株式会社化し、即東京証券取引所第1部に上場しました。そこから私は社長になったわけですけれども、それ以前の専務のときから「株式会社化はゴールではない、“新創業”だ」ということを社内に呼びかけてきました。まさに新しい定款でスタートする新しい企業です。当時、社員数は6万人。ですから、その日は6万人の入社式でもありました。私は挨拶で「創業時の精神の原点に帰る。いちばん人を考える会社になる。変わらないものを守るために、われわれ自身が変わることを恐れない」という話をしました。

――昨年10月には持株会社に移行しました。

渡邉 いまやグループとして国内3社(第一生命、第一フロンティア生命、ネオファースト生命)、海外6社の生命保険会社、そして2つのアセットマネジメント会社があります。その一つひとつが大きくなったこと、また、急激な変化を迎える時代にあっても、引き続き国内生保事業、海外生保事業、資産運用・アセットマネジメント事業の3つの成長エンジンで、さらなる成長を加速させるために持株会社体制にしました。

意外と知られていませんが、第一フロンティア生命は外貨建て定額商品の販売が堅調で、資産規模でいうと地銀並みです。

――海外6社の生保会社ということですが、地域は。

渡邉 オーストラリア、ベトナム、インドネシア、インド、タイ、それにアメリカです。

――現在の事業規模は。

渡邉 これは国内になりますが、お客さまの数は約1100万人、1日当たりの保険金・給付金のお支払い額は約50億円にのぼります。またグループ全体としては、約7万人の役員・社員数がおり、総資産は50兆円というところです。

北海道でいちばんの信頼を得ている

――今年は第一生命が北海道で営業を始めて100年になるんですね。

渡邉 東京、大阪、京都、神戸、名古屋と拠点を構え、その後すぐに北海道に進出しています。そもそもの創業が115年前ですから、早い段階から北海道に注目していたといえます。

――なぜでしょう。

渡邉 いまから101年前の1916年、創業者である矢野恒太が北海道を訪ねています。当時の北海道庁長官や北海道拓殖銀行の頭取と面談したり、日本銀行旧小樽支店や旧日本軍第7師団など、北海道を代表する機関をすべて訪問しているのです。そこで矢野はいろいろな話をうかがい、ときには議論もしたことでしょう。そうした中で“絶対に北海道に進出する必要がある”との確信を持ったのだと思います。北海道の未来を想像し、自分たちも北海道という地域を発展させよう、北海道のお客さまとともに歩もうと決意するのです。

そこで翌年、矢野は当時“日本一のセールスマン”と言われた渡幸吉という人物を北海道の担当にしました。それくらい北海道に対する思い入れは強かったのだと思います。渡はその実力をいかんなく発揮して、お客さまからの信頼を得ていきました。

――それが今日にまで。

渡邉 そうですね。100年のときを経て、道内に85の拠点を構え、そこで約2500人の社員が、それぞれの地域で頑張っています。お客さまの数は約40万人。保険件数は約60万件に上ります。「北海道でいちばん信頼を得ている会社になった」といっても過言ではないと自負しています。

101年前、矢野が見た北海道の未来。100年後のわれわれも、そういう目線で北海道を見る必要があると思います。

――日本の生命保険会社でいうと第一生命は後発になりますね。

渡邉 1881年に明治生命、1888年に帝国生命(現朝日生命)、翌1889年に日本生命が設立しています。当社は1902年創業ですから後発です。

石坂泰三という名前をご存知かと思うのですが、戦後、東京芝浦電気(東芝)の社長や2代目の経済団体連合会(経団連)会長を務めた人物です。その石坂は戦前、当社の社長を9年間務めていたことがあります。このときに当社は大躍進し、業界5位から2位のポジションにつけました。1932年のことです。

いよいよトップを目指すというときに、矢野は自宅に石坂らを呼ぶんです。石坂は「いよいよ一番大きな会社になります」と勇んで言いました。すると矢野は「それはいけませんな」と返すわけです。きっと石坂らは呆然としたでしょう。

矢野は、量の拡大は相対的な価値でしかなく、長い目で見ると業界のためにならない、絶対的な価値は最良を目指すことだと、後に“大経営者”と言われる石坂を諭したんです。以後、当社は、最大化ではなく最良を求め続けて今日に至っています。

――第一生命の社訓ともいえる「最大たるより最良たれ」ですね。

渡邉 そうです。ただ最良を求め続けることは終わりなき旅です。ゴールはありません。だから非常に過酷なんですが、経営にとっては重要なことです。

北海道でも「最大たるより最良たれ」の経営を続けてきました。この精神は今後も堅持し続けます。

株式会社化は次代のための選択

――株式会社化から7年たちますが、追随してくる同業他社がありませんね。

渡邉 いま考えると10年4月に株式会社化、上場できたというのは奇跡的なことだったと思います。

当社で最初に株式会社化の話が出たのは生保業界が真っ逆さまに転落していたころです。バブル崩壊後の1997年、債務超過で日産生命が倒産。その後も信用不安に陥った生保が次々と倒れ、4年間で計7社が経営破綻しました。また当社が株主であった山一證券、拓銀、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行も続けざまに破綻しました。当時、私は決算対応をやっていましたが、3年で1兆5000億円の減損処理をやっていた時期です。そんな時代の社長が森田富治郎でした。

契約者が会社の構成員という仕組みをとる相互会社では資本調達が限られています。余剰金を配当に回す仕組みでは危機の時代に対応できず、1996年の保険業法改正以降、株式会社化は議論の的になっていました。2000年ごろ、私を含めた一部役員が森田に株式会社化を提言したのですが、その答えは「お客さまにとって証拠不十分」ということで却下されました。

森田の後任が斎藤勝利。07年に斎藤が株式会社化を決断しました。

――当時、森田さんは会長ですね。会長と社長とで意見が食い違ったんですか。

渡邉 決してそんなことはなかったのですが、お客さま志向の経営と株式会社化は、社員から見ても矛盾と取られかねない。体制の転換は社内が一枚岩でなければできません。社内の分裂が危惧されました。そのときに助っ人を買って出たのが歴代の社長たちでした。

森田の前任だった櫻井孝頴は「創業者は相互会社だけにこだわっていたわけではない」と言って、矢野が明治大学で講演した講演録を探してきました。そこには「株式会社がいいか相互会社がいいかという議論があるが、家にたとえれば木造にも石づくりにもそれぞれいいところ、悪いところがある」とある。要するにお客さまにとって時代に合ったいい家を求めることがわれわれの本質だということです。斎藤はこの言葉をコピーして組織内に配布しました。森田は管理職層の講演で、櫻井は社員向けの講演でこの話をしてくれました。これで社内はまとまったと思います。

――株式会社化の決断が07年ということですが、翌年にリーマンショックがありましたね。

渡邉 10年4月1日をゴールに決め、それまでに2年半の検討期間がありました。ご指摘の通り、大事なときにリーマンショックが起きました。当時、私は常務で株式会社化を進める責任者。社内で株式会社化のコンセンサスはとれていましたが、私はあえて「バラ色の株式会社化なんかない。茨の道だ。しかし、それは次代のための選択だ」と話したものです。

――先ほどおっしゃった「奇跡的」というのは。

渡邉 株式会社後、ギリシアの財政危機を発端とした欧州危機があり、翌年に東日本大震災。その後も消費税の引き上げ、マイナス金利政策、アメリカ大統領選でのトランプ現象等々、そうした外的要因を考えると、株式会社化・上場のタイミングは10年1月から5月までの間だけだったと思います。われわれは株式会社化・上場準備に300億円かかりました。いまならもっと多額になるでしょう。おそらく他社で株式会社化を目指していたとしても、逆風が強すぎて逡巡すると思います。追随してくるようなところは出てこないかもしれません。

=ききて/鈴木正紀=