「情報を先取り、タブーに挑戦」を編集方針とし、生活者・企業経営者に
最新かつ有益な情報価値をご提供する、北海道の地域政治・経済誌

ロゴ

トップページ > 社長ブログ > 2025年(3)

長ブログ

このエントリーをはてなブックマークに追加

サスティナビリティ(112)
2025年(3)
更新日:2011年02月14日

    

 1865年開国、1905年日露戦争の勝利、1945年太平洋戦争終戦。40年史観でいくと1985年が日本の大転換の年ということになる。この年に何が起こったのだろうか。プラザ合意が歴史の転換点になったのではないだろうか。1985年9月、ニューヨーク・プラザホテルでG5会議が開催され、“協調的ドル安”がわずか20分で合意された。年初1ドル250円前後だった為替レートは年末に160円となり、実に数ヶ月の内に36%もの円高になってしまった。日本では、急激な円高を抑えるため低金利政策をとったため、だぶついたお金が土地や株式に向かった。これがバブルの芽となる。バブル経済の起点は1985年のプラザ合意とする意見が多数を占めている。円高による輸出産業への打撃によって “失われた10年”“失われた20年”を経験して今に至っているわけだ。1985年はまさに歴史上のエポックの年であった。
当時の日本政府と日銀は、プラザ合意が将来に及ぼす影響を過小に評価していたのかもしれない。さほどの抵抗を試みることなくわずか20分で“快諾”したのだから。前回紹介した半藤一利氏が指摘している「マスコミに煽られ、熱狂そのものが権威を持ち始める(当時の多くがジャパン・アズ・ナンバーワンと誤解していたのではないだろうか)」、「具体的・理性的な方法論を苦手としている」、「国際常識が欠如しており主観主義で処理する」、「ことが起こった時、対症療法的、短兵急な発想、その場のごまかしで処理する」という日本人の欠点のいくつかが、この時も出ていたのではないだろうか。ちなみに、中国では日本を反面教師としているようだ。輸出に大打撃を与えたプラザ合意の轍を踏まないよう、中国政府は当時の状況を詳細に分析し、通貨政策の対応を検討していると聞く。
 この年(1985年)の新年を迎えると間もなく、私は米国本社への転勤を命じられた。勤務先は米国中西部オハイオ州デイトン市に所在するN社世界総本部。デイトンはライト兄弟の生まれ育ったところで航空の町として知られているが、一方GMの大型車両の工場があり自動車の町としての顔もある。当時、日本からの輸出攻勢でGMも苦境に立っていた。日本製自動車が道路上で燃やされたり、バイ・アメリカン運動が展開されるというような不穏な動きもみられた。このような時のプラザ合意による大幅な為替レートの変更で、米国側は一息ついた様子が感じられた。しかし、私としてはとんでもないことになってしまったと思っていた。米国に赴任した時の為替レートが1ドル250円だったが、1998年に帰国したときは130円ほどになってしまった。給与は円建てではなくドルで支給されていたので、円ベースでは給料半減である。住宅ローンは下落したドルで毎月日本に円で支払わなければならない。日本出発時、銀行から貯金をおろし持参した当時の私の“全財産”は、米国赴任後ドルに替えてしまったので、帰国したときには、なけなしの財産がほぼ半減してしまった。なんと間の悪いタイミングで米国に来てしまったのかと嘆いたものである。“プラザ合意”の犠牲者の一人だった。

 その頃、日本ではバブルが芽生えていたのだろう。超低金利政策でだぶついたお金が土地や株式に向かい、海を渡って米国にも旺盛なジャパンマネーが及んでいた。日本企業によるロックフェラー・センター・ビルの購入、バンク・オブ・カリフォルニアの買収、女子高生の五番街でのブランド品買いあさりなど、当時の現地マスコミで大々的に報道され、現地の私は一体何が起こっているのかと戸惑うばかりだった。この頃、日本では「東証1部上場株式を全て売ると米国企業のほとんどが買える」「日本の土地の総価格でアメリカが2つ買える」などの言葉が氾濫していた。3年間の米国勤務を終え帰国したときには、「株買え」「土地買え」「ゴルフ会員権買え」との同僚の“大変に親切な”アドバイスも、実感として理解することができず積極的に乗ることはできなかった。

 そして、1989年12月29日の東京証券取引所大納会。日経平均が3万8915円という史上最高値を付けた後1990年にバブルが崩壊。失われた10年(20年)に突入した。北海道も、1997年11月に拓銀が破綻したことを契機に、大きな痛手を負った。2000年には日経平均は10年前の半分となり、現在はさらにその半分になっている。20年間で4分に1にまで下落したことになる。開国から40年で日本は躍進の道をたどり日露戦争に勝利し、その40年後には太平洋戦争で日本は没落。戦後復興から立ち直って世界第2位の経済大国に躍進するまでに40年、そして1985年プラザ合意が引き金となってバブル崩壊するまでに40年である。

 1985年から既に25年を経ており、本ブログテーマである2025年までにはわずか15年足らずである。これまでの25年の動きを考慮しながら次の15年を見ていきたいと思う。この15年間は、次の飛躍のターニングポイント向かい態勢を整えながら体力を強化する期間ではないだろうかと考えている。沢部肇TDK会長のブログで、中国の方が1997年に書いた次のような文が紹介されている。「“虚心”、“好学”、“創新”:明治維新では欧米の近代文明を取り入れ、第二次世界大戦後の復興ではアメリカを追いかけ飛躍した。素直な心(虚心)になって過去にとらわれず、世界に学んで(好学)、新しい日本を創る強い気持ち(創新)があれば日本はまだ十分にやっていける」
 今後のブログでは、「為替レートを中心とした日本の経済力」、「BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)を中核とした新興国との関係」、「地球温暖化が進む中での環境対応」、「世界的資源不足と資源輸入国の日本」の4つの側面から日本および北海道をみていきたい。