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サスティナビリティ(111)
2025年(2)
更新日:2011年02月01日

    

 前回、「昭和史」を書いた半藤一利氏の40年史観を紹介したが、ざっとおさらいをしてみる。1865年、日本は300年の眠りから覚め開国を宣言した。鎖国のままだと当時のアジア各国と同じように欧米列強の侵入を受け植民地化されるという恐れと、世界に勇躍したいという熱い思いが、長く閉ざされた扉を開くことになったのだろう。
 それから日露戦争勝利までの40年間、日本は国民が一丸となって列強に追いつこうと懸命な努力をした。この時期、20代、30代の若者が数ヶ月から数年もかけて海外で勇躍し、盛んに研鑽をはかってきたことが原動力になった。彼らは夢を追い、星雲の志で列強に追いつこうと懸命な努力をしたのだろう。ゼロからの出発で“貧乏な国”であった日本は、欧米の文化を取り入れ、軍備を増強し、近代国家を完成させた。まさに昇り龍の勢いだった。これが、1905年の日露戦争勝利で頂点に達した。国を開いて40年で日本は近代国家を完成させたのだ。「坂の上の雲」では、当時の熱気が伝わり読む者の気持ちをいやが上にも高揚させる。
 05年が頂点だったとしたら、その後の40年間はまさに奈落の底に沈み込む歴史であった。45年8月、310万人の戦死者を出した太平洋戦争が終結。日本の多くの都市は焼け野原になり経済はどん底に落ち込んでしまった。“国を作るのに40年、国を滅ぼすのに40年”(昭和史から)。今から思えば、なんと愚かなことをしたのだと思うが、日本全体が列強に追いついていい気になり、うぬぼれ、のぼせた結果なのだろうか。
 私は昭和18年(43年)の戦中生まれで、歴史年表を見るとこの年にはガダルカナル島が奪取され、アッツ島が玉砕し、真珠湾攻撃の指揮を執った山本五十六が戦死し、学徒出陣が始まったと書かれている。
 もちろん、昭和天皇の「玉音放送」を覚えているわけではない。物心ついた頃は、袖にこすりつけた青っぱながこびりついたツギハギだらけの服を着て、野山を走り回っていた。母親は嫁入り道具の和服をたずさえて農家に行き、コメを分けてもらっていたのも不思議と記憶に留まっている。日本の誰もが貧しい生活に耐えていた時代である。だが、不思議と「明日への不安」は感じられなかった。小学校の頃は給食がなく弁当持参だった。海苔がちょこっとご飯の上にのり、脇に漬け物が添えられた程度のもので、温めるため石炭ストーブのそばにずらっと置かれる。教室中に漂っていた弁当の臭いが今も懐かしく感じられる。中には弁当を持ってくることの出来ない子が数人おり、一緒に分けて食べた記憶もある。中学生の頃東京へ行ったが、知人のお宅にうかがった時に驚いたのは幼稚園の子供の弁当箱をのぞいた時のことだ。弁当箱には卵焼き、ウインナー、野菜が色とりどりに盛られていた。この頃が日本経済の復活が始まった時なのではないだろうか。

 56年の経済白書で「もはや戦後ではない」と政府が高らかに宣言し、三種の神器といわれた家電ブームが始まる。父親が無理して買った白黒テレビで皇太子のご成婚パレードを見たのを思い出す。狭い部屋にご近所の人達が大勢集まっていた。池田首相が所得倍増計画を打ち出したのもこの時期であった。

 その後、日本経済は世界も目を見張るほどの成長で、79年、米国の社会学者エズラ・ボーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が発表されると、多くの日本人がすっかりその気になってしまった。日露戦争後の40年間と同じく、いい気になり、うぬぼれ、のぼせた。歴史上にもまれな敗戦後の驚異的な経済成長にはいくつかの要因があったと思われる。第1には、朝鮮戦争特需やベトナム戦争特需がどん底の日本経済を救った点。第2に、欧米の先進的技術や生産方式という明確な目標があり、キャッチアップ型の経済方式を採ることができた点である。また、繊維を中心とした産業からより生産性の高い製造業・建設業・鉱業などの産業への転換が、問題をはらみながらもできた点もあげられる。農村地域からの豊富な労働力がこれら新興産業を支え、もちろん、日本人の生真面目さと高い労働意欲が成長を下支えした。第3には今回特に注目していきたい為替レートが挙げられる。戦後1ドル360円の固定為替レートが長く続き、71年にはスミソニアン合意で308円に設定された。その2年後の73年、日本は変動相場制に移行した。45年から73年までの28年間にわたって、日本は極めて有利な固定相場制に恵まれていたことになり、輸出産業を中心とした日本経済野成長に大きく貢献したといえるだろう。

 そして、終戦から40年後の85年、ニューヨーク・プラザホテルで開催されたG5会議で、“協調的ドル安”がわずか20分で合意された。当時1ドル235円だった為替レートは1年後に150円となり、85年から87年の2年間で51%もの上昇になった。急速な円高を抑えるため日本政府と日銀は低金利政策を採用し、これが不動産・株式への投機を促し、やがてバブル景気をもたすことになる。戦後、世界の経済大国にまでなった日本は、日露戦争後とくしくも同じ40年で絶頂期を迎えた後、泡のように繁栄がはじけ飛んだ。この時期、私はちょうど米国に勤務していたので、この点については後で詳しく説明したい。

 半藤一利氏は、昭和史20年の教訓として次の5つを挙げている。

 第一:マスコミに煽られ、燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威を持ち始める

 第二:日本人は抽象的観念論を好み、具体的・理性的な方法論を苦手としている

 第三:小集団主義の弊害が横溢しており、特権組織が全ての権力を持ち他は認めない

 第四:国際的常識の欠如で、主観思考で処理する

 第五:ことが起こった時、対症療法的、短兵急な発想、その場のごまかしで処理

 さて、次の40年を迎える2025年。あとわずか14年である。日本経済の低迷はその時まで続くのだろうか。それとも2025年で反転するのだろうか。半藤氏の指摘した教訓が今後に生かされるのだろうか。見ていきたい。