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北海道開拓の先覚者達(80)~アイヌ民族―5更新日:2016年10月15日

    

 最盛期には50万人を超え、「自然界をカムイ(神)として尊び、祈り、歌い、踊り、命を輝かせ、賑やかで、笑い、泣き、怒り、喜び、まことに豊かな暮らしを送ってきた」(知里幸恵)アイヌ民族の人口が、大幅に減少している。

 前回は、当時世界最強の「元軍によるカラフト攻撃」と「コシャマインの戦い」そして「シャクシャインの戦い」について触れた。これらの戦いでは、直接の戦死者による人口減少よりも、敗戦によるアイヌ民族の抵抗力と影響力の衰えが人口減少に大きく響いたといってよいだろう。アイヌ民族と、その生活の中に入ってきた和人商人たちとの間の力関係が大きく変化してきたのだ。

 その後のさらなるアイヌ民族の衰退について、以前の本ブログで過去に掲載された内容を含め、その要因を順次記載していきたい。

 和人商人とその番人たちは、サケ・マス・シシャモなどの遡上魚を、川下に大網を三重にも張って根こそぎ捕ってしまう。川上の産卵場を漁場としていたアイヌ民族は、遡上魚の大幅減少と環境破壊によるコタンの疲弊で、生活基盤を根底から崩壊され窮乏化していった。

 その環境変化をもたらしたのは、蝦夷地の一豪族であった蠣先慶廣(かきざき・よしひろ)であろう。彼はアイヌの人たちから調達した、異常に大きなテンの毛皮を豊臣秀吉に贈るなどしてうまく取り入り、朱印状を秀吉からもらった。

 この書状を東西のアイヌ民族の乙名(酋長)たちに示し「若しわれに叛き、諸国より来る和人に無礼なことがある時は、関白殿(秀吉)数十万の人勢を差し遣わし悉く討伐せられるだろう」と、恫喝し服従させたのである。

 秀吉が亡くなると、今度は徳川家康に取り入り、1604年には「蝦夷地に出入りする商人とその他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑される」というお墨付き(黒印状)を得る。これにより悪名高い商い場や場所請負制度が始まることになる。蠣崎は名を松前慶廣に変え、蝦夷地を実質的に支配する立場となった。

 それまでも松前藩はアイヌに対し、随分あくどいことをしてきたが、「場所(漁場)」という制度が確立してからは、藩のアイヌに対する態度が一変した。当初、場所は松前藩とアイヌとの交易場所であったが、アイヌの生産を上げさせるため、場所を商人に請け負わせ、さらに商人は運上屋を設け、アイヌの人たちが採る海産物を独占的に買い占めた。アイヌを労働者にするところが多くなり、アイヌの人たちを動物以下に扱って徹底的に絞り取った。藩はその商人たちに寄生し、彼らから運上金を徴収して暮らしていたのだ。1781年から1788年の天明の飢饉で米価が急騰。藩財政が厳しくなるとアイヌに対する場所請負人の収奪はさらに激しさを増していった。

 こうした悪徳商人の中でも最も腹黒かったのは飛騨屋である。1788年、飛騨屋は突然サケのしめ粕造りを始め、クナシリ・メナシのアイヌを強制的に使役し始める。桁外れに安い報酬で酷使した上、女たちを辱める。抗議すると皆殺しにすると脅かす。これがクナシリ・メナシ蜂起の背景だった。

 蜂起は1789年に起こった。当時飛騨屋の番人たちはアイヌ女性への姦淫や陵辱は目に余るものがあり、妻も娘も見境なく勝手次第に慰みものにし、抗議すると打ちたたかれ、髭を剃り落としてしまう有様だった。また、肥料にする魚粕をゆでる大釜に、大人ばかりか子供まで放り込み煮殺しにすると脅かす。このような乱暴狼藉が続く中、クナシリの乙名(酋長)マケメリの妻が、番人からもらった飯を食べて亡くなってしまう。マケメリの息子はこれに激怒し、仲間とともに蜂起。飛騨屋の支配人・番人ら23人を殺害する。次いでメナシ(今の羅臼)のアイヌも呼応し、番人や舟子50人を殺害。蜂起したアイヌ総勢はおよそ200人といわれる。

 その後、南部軍の助力を受けた松前藩が反撃。火力の違い(鉄砲対弓矢)からアイヌ軍は劣勢となる。クナシリ総酋長ツキノエ、アッケシ総酋長イトコイなどの乙名たちは38人の首謀者を松前軍に差しだし、彼らは全員凄惨な処刑方法で惨殺される。酋長たちは松前藩に招かれて歓待を受け、家老の蠣崎波響(かきざき・はきょう)がその姿を「夷酋列像」として描く。この画に描かれた夷酋(乙名たち)は日頃着用していない豪華な衣服を身に着けている。これこそ「蝦夷錦」と呼ばれ、大陸の黒竜江河口の交易所から、延々カラフト・千島・東蝦夷地を巡って松前藩の手に渡った明の国の絹織物の古着である。

 蝦夷地を8回にわたり探検・調査した冒険家、幕臣の最上徳内(1755-1836)は、蝦夷地を隈なく歩く中で、アイヌの人たちから「クナシリ・メナシの戦い」の状況を聞き、江戸に帰ると「蝦夷草紙」を書き、その中で詳しく報告した。

「松前藩支配下の北海道・千島アイヌほど悲惨なものはなかった。これは地獄だ」。

「本土人(江戸・京都)の喜ぶ錦や飾り玉は、蝦夷(アイヌの人たち)の身を異国に売りたる代金なり。実に身の塊なり。借金を責められ返すすべもなければ、よんどころなく一生の別れをして異国に囚われ、また残りたる妻子は草の根を掘りて喰い、あじけなき命を長らいても生きて甲斐なき風情なり。これ皆、松前にて催促して(松前藩がアイヌの人たちに無理強いして)錦・青玉を買い上げる故なり。たとひ数万両の金を捨つるとも、これまで取られたる蝦夷を返したく思うことなり。」

 当時、沿海州に住む三丹人(ギリヤーク人?)は蝦夷地に来て、江戸や京都の人たちが喜ぶ蝦夷錦や飾り玉を黒テンの毛皮や日本製の鉄製品やたばこと交換するのだが、松前藩はアイヌの人たちにその交易を強制した。黒テンも乱獲で減少し、またアイヌの人たちが搾取により貧窮化すると、三丹人は蝦夷の少年を奴隷として連れ去るということが頻繁に起こっていた。松前藩はその事実を知っていても知らぬ顔だ。

「コシャマインの戦い」「シャクシャインの戦い」に続く「クナシリ・メナシの戦い」は、アイヌから徹底的に抵抗力を奪い、彼らは時の権力にやむなく従わなければならない道を選ばざるを得なかった。

 最上徳内と同様、蝦夷地を7回にわたり訪れ、その間アイヌの人たちと寝食を共にした松浦武四郎(1818-1889)は、「近世蝦夷人物誌」で次のように、アイヌの人口減少を嘆いている。

「文政のお引渡し(1821年に幕府が直轄していた蝦夷地一円の支配を松前藩に戻した)時点では、シャリ会所には戸数366、人口1326人がこの地に住んでいた。しかし今(武四郎が訪れた1849年)は、戸数173、人口350人と4分の1に減っている」。

「この地の夷人(アイヌ民族)は、16~17歳になると男女の区別なくクナシリ(国後)やリイシリ(利尻)等へ強引に移動させ、そこで使役させる。女は番人・稼人等の妾とし、その夫は離れた土地の漁場に追いやり働かせる。アイヌの男性は昼夜の別なく酷使され、その苦しみに耐えられず病に就くものは倉に放置し、一服の薬も、一切の食事も与えない。ただ、身寄りの者が食事を運んで生きながらえさせる生活をするのみ」。

 アイヌの人たちは武四郎に、「アヨタコタン(地獄だ)」と、悲しげに言葉をふりしぼって語っていた。

 松前藩や場所請負人、さらに多くの和人たちは、心優しく純朴で交易の民として活躍していたアイヌ民族を全く理解せず、“入れ墨をしている”“髪が整っていない”“衣服(あっとうし)が着流しである”“文字が無い”ということだけで自分たちを優越視し、アイヌ民族を差別化し蔑視した。

 同じようなことが今もあるのではないだろうか。“皮膚の色が違う”“宗教が違う”“風習が違う”などの理由だけで、毎日多くの人達が差別を受け、悲惨な生活を余儀なくされている。

 意味なく格差社会に追い込まれ、社会による差別が進み、相互不信が高まった時、それが火種となって歴史が示すように恐ろしい紛争が発生する。今一度、和人とアイヌ民族との関係を思い致さなければならないだろう。